圖書館ノ怪｜リアクション

圖書館ノ怪

　三

　カフェーと云ふ言葉に対し、智也はあまりいい思ひ出が無いやうである。かつての情人との逢引を思ひ返し、表情を蒼白にした。品書を讀む前から萎びた青菜のやうである。七瀬は往來に立つてゐた時と変はらず鷹揚な樣子で品書を覗き込んでゐた。
「アレだろ、クリーム山盛りのパンケーキとか……そういうやつ」
「智也の行く喫茶店はそういう所なんですねー」
「俺の趣味じゃない、彼女の趣味だ……いや、今となっては元――」
「まあまあ。ここはそことは違うみたいです」
　さう言つた言葉に支へられ智也は品書に目を通した。つらつらと並んでゐる文字の中で、珈琲一杯五錢と云ふ文字が目に留まる。智也が頭の中で珠算すると、うつつのカフェーで扱つてゐるものとさう変はらぬことに氣附いた。
「……今とそんな変わんねえんだな」
　智也は品書の中から珈琲の他、一つ選んで前に坐る七瀬に云ふ。
「よし、俺はこれにするぜ」
「では僕はカレーライスにしましょう」
　注文を終へて二人は椅子に深く腰掛けた。昴としてゐた智也の瞳が、おもむろに七瀬を捉へる。
「此処じゃなくてもカレーは食えるんじゃねえか？」
「カレーはどこいっても美味しいですからね、たぶん」
「……そうだな、ハズレを選んじまうよりはマシか」
　会話らしい会話は其れが最後になつた。二人はもうもうと煙草の煙が立ち込める中、料理が運ばれるのを、今か今かと待つてゐる。時折人が行き來するために、二人のいるテヱブルを横切つた。存外繁盛してゐるらしい。智也はテヱブルを指で叩きながら、七瀬は品書の字を目で追ひながら、給仕の來るのを待つた。

　四

　ライスカレーとカツレツを載せた盆を給仕が持つてくる。出來立てのライスカレーを七瀬は瞳煌めかせて見て、さうして智也と目を合はせた。示し合はせたやうに二人手を合はせ、食べ始める。うつつの人は見慣れてゐるらしき洋食も、この場で食べれば新鮮なものと感じるのであらう。二人は一口食べるごとに、美味ひ美味ひと云つてゐた。
「うまか～」
「……うまいな」
　どちらも中々の健啖ぶりを見せて、もう半分ほど食べたときのことである。七瀬の方が智也の皿を覗き込んで、其のさくさくした衣に包まれたカツレツを見て云ふ。
「智也はなんば注文したとやったっけ？」
「俺はカツレツ……要するに、豚カツだな」
「よかったら一口ください。僕のをあげるので」
「……む」
　目を白黒させ抗弁すべく口を開く智也であるが、其の心知らずか、七瀬は追の一撃を喰らはした。こう云はれてしまつて、智也は金魚のように口をぱくぱくさせてゐた。
「『あーん』してください～」
「しょうがねえな……一切れやるよ」
　さうして七瀬の口に一欠けらのカツレツが入る。彼は口に入つた其れを味はひ、智也に自分のライスカレーを分け与へた。
「……あーん」
　智也は大儀さうな表情で、其れを食してゐる。然し其の心は表情とは裏腹に、七瀬への謝意と含羞で滿ちてゐた。彼から分け与へられたカレーをひと噛みするごとに、ますます含羞は強くなる。智也は其れを隱すために、眉に皺を寄せる羽目に成つた。
「ふふ、うまかですねー」
　七瀬は天才的鷹揚で、智也の樣子に頬を緩ませてゐる。さうして語らふ二人の横を、女給が行きつ戻りつして、忙しなささうにしてゐる。煙草の煙は先程と変はらずもうもうと立ち込めてゐて、カフェーの中を我が物顏で滿たしてゐた。七瀬は手元のカップを口元に寄せ、珈琲をぺろりと舐めた。
「……にがい」
　慣れぬ味に七瀬は顏を顰める。すると、今度は智也が聲を上げて笑ひ出した。すると珈琲の苦みがますます七瀬を苦しめて、智也はますます笑ふ許りだ。
　カフェー・フランケンシュタインはけふも盛況である。