※ののこは去年同様、居眠りでこの騒ぎに気が付きません。

　寝子高の南校舎は、３階に３年生、２階に２年生、１階に１年生の普通教室がある。
　愛李子が階段を下りて２階に行ったということはすなわち、性転換の被害が２年生にも及ぶということにほかならなかった。

「ど、どうしよう……」
　鴻上 彰尋はたわわに膨らんだ胸を両手で押さえ、頬を赤らめる。
　身の丈はちぢみ、黒髪も伸びて肩よりすこし長くなっている。
　ぶかぶかになったシャツの袖をまくる。
　細くくびれたウエストでは、腰回りもゆるゆるで、油断したらズボンがずり落ちてしまいそうだ。
「身体測定、可もなく不可もなく終わる予定だったのに……上手くごまかせるなら測定しちゃいたいけれど、全然背丈も変わっちゃってこれじゃあ体重はともかく身長は無理だ……」
　どうしよう。どこかに隠れようか。
　そんな純粋な反応を見せる者もいるかと思えば、雨寺 凛のような者もいる。
「あー、これ去年も見た。また愛李子センパイ飛ばしてるのか……って、なんか一年寝子島で過ごして『非フツウ慣れ』しちゃってるなぁ」
　このパターンも、意外と多かった。が、ゆっくり考えている暇を与えてくれないのが愛李子である。
「ってセンパイ目の前に来てる！？」
　どーん、という衝撃と共に、凛の身体は壁に激突。
「あいたた……また男になっちゃったか……。はっ、去年通りだとしたら……」
　凛は窓ガラスに張り付いて自分の顔を確認する。去年見たのと同じ……いや、去年より少し成長して凛々しくなった、爽やかな雰囲気の長髪ロック系男子がそこにはいた。
「やっぱ超イケメン……！　素敵！　自分だけど！」

　凛といっしょに跳ね飛ばされた宮祀 智瑜も、あたた、と身を起こす。
「……あれ？」
　下を見ても遮るものがない。普段なら、胸のせいで床がみえないのに……！
「胸がないです？　落としたのかな？」
　ぷちパニックに陥り、慌てた様子で床に自分の胸が落ちていないか探す智瑜。
　アタリマエなことにふたつの胸は落ちていなかった！
「無いですね」
「落ちてたらコワイよ」
　凛が思わずツッコむ。
　大きな瞳とサラサラの黒髪はそのままに、柔和な雰囲気の少年に変身した智瑜は、自分に起こったことを徐々に理解し、思わず傍にいた女子・彰尋に向かって戸惑いをぶつけた。
「何で身体測定前に胸が縮むんですか！？　胸囲だって測るんですよ。どうするんですか！」
「どうするんですかと言われても……」
「これ以上胸が大きくなったら困るって思ったのが原因？」
「ぜ、ぜいたくな悩みだね……」
　そこで智瑜ははっとする。
「義弘先生に会ったらどうしよう。先生に絶対気付かれそう。だって先生、おっぱいに詳しいですもの」
「先生もおっぱいばっかり見てるわけじゃないと思うけど……」
　彰尋は苦笑するが、智瑜は自らの胸に触れ、白目になっている。
　やがて背景に集中線まで引かれて。
「どう触っても柔らかくないです。ぺったんこ……。胸は揉むと大きくなるというけれど揉むほど無い……！」
「男の子だからね……」
　彰尋の声を聞く余裕は、智瑜にはなかった。
　隙間だらけになった胸とブラジャーの間に、ハンカチやタオルを必死に詰め込む。
　だが、もともと大きな胸だったので、手持ちの分だけではどうしても元のサイズに戻らない。
「足りない……一枚足りない……」
「「お岩さんかーい！」」
　彰尋と凛がツッコミを入れたそのとき！
「はーっはっはっは！」という高笑いがあたりに響いた。
　手にした一輪の赤薔薇。かぐわしきそのの香りをかぎ、カツカツと（上靴でどうしてそんな音が出るのかわからないが）やってきたのは！
「僕は寝子島の妖精、花椿 涼太郎！」
　自分で言った！
「昨年の秋から転校してきたから、この学校での身体測定は初めてだね！ さぁ、僕の美しさを思う存分測定してもらおうか、まぁ僕の美しさは計り知れないけれどね、はーっはっはっはっは……ぐふぅ！」

　あっ、轢かれた。

　涼太郎の身体は華麗に空を舞い、廊下にべしゃっと顔から落ちて、足だけあげたシャチホコみたいなポーズになっている。
「ぐ、ぐぬ、ぐぬぬ……だ、大丈夫かい？」
　それはあなたにききたい……と彰尋は思った。
「僕は大丈夫だよ、」
　涼太郎はあげたままの足をぐぐぐとさらに持ち上げ、逆立ちになる。
　そこから勢いをつけて一回転！　おもわず10.00！と言いたくなるような見事な着地。
「僕は何が起こっても美しいからね、はーっはっはっはっは……あれ？　声が……」
　涼太郎は首をかしげて喉元に触れた。あるはずの喉仏がない。
「いや、僕の体形が……え？　この胸の重みは……」
「あっ！　私のおっぱい！」パニック中の智瑜。
「いや違うから」凛はすっかりツッコミ担当だ。
　涼太郎は普段から持ち歩いている手鏡を取り出すと、自分の顔がよく映るよう角度を合わせる。
　そこに映っていたのは、――自分と同じ位置に泣き黒子がある美しい黒髪の少女であった！
「……この美しい女性が、僕……！？」
　ナルキッソスというギリシア神話に登場する美少年がいる。泉の水面に映った自分に恋をし、延々自分を見つめ続けた末に水仙の花になってしまった……という伝説的自分ラブな少年で、ナルシストの語源にもなったのだが、涼太郎はふだんから自分の美しさに日々酔い痴れるナルキッソスそのものであった。そんな彼が女性化したのだから、鏡の中の自分に恋をしないわけがない。
「あぁ、やっぱり僕は女性化しても美しいんだね……！」
　涼太郎はうっとりとして手鏡の中の自分に話しかける。それからそわそわと自らの胸を見て。
「しかも、なんというか、あの……豊満だね……」

　そのときである。
　智瑜の想い人である桐島 義弘先生が通りかかったのは。
　こんな異変、先生にバレるわけにはいかないと、彰尋はさっさとその場を立ち去る選択をした。
　一方、智瑜は胸元をかき寄せると、凛の後ろにぱっと隠れた。
　そしてバレないかハラハラしながら、凛の肩越しにじいっと桐島先生の顔を見つめる。
　そのあまりの眼力に、桐島先生も声を掛けずにはいられなかったらしい。
「宮祀か。どうした？」
「先生はおっぱいが大きくても小さくてもこだわらないですよね？」
「なッ。唐突になんだ！？」
　焦ったように眼鏡の位置を直す桐島先生。だが智瑜の表情は真剣そのものだ。
「先生！　おっぱいが小さい女性は好きですか？」
「そ、それは……」
　動揺した桐島先生の目の前には涼太郎がいた。
　涼太郎は（自分が見て楽しむために）豊満な胸を強調させるポーズを取っていた。
　桐島先生の視線は、自然に涼太郎の胸元に吸い寄せられてゆく。
「嗚呼……やっぱり……！　先生は大きいおっぱいが好きなんですね！」
　智瑜はわあっと涙目になって駆けだした。
「あ、おい！　宮祀！　なんなんだ……それに、いつもとどこか様子が……あっ」
　桐島先生は後ろからぶつかってきたボーイッシュな体格のよい女子に押されて前のめりに転んだ。
　源一である。
「ああ、先生すみません。眼鏡が壊れてしまったようで」
　なんか一瞬、手刀で壊したようにも見えたが気のせいに違いない。
「よく見えませんか、そうですか。でしたら職員室に戻られるとよいと思いますよ。ここは大丈夫。今走り去っていった子もじきに落ち着くことでしょう」
　源一はしれっと言った。戸惑い隠せぬ桐島先生は今日は厄日だと悟ったらしい。
「そ、そうさせてもらおう」
　桐島先生の、何とも言えぬ疲れた背中が見えなくなるまで待って、智瑜ははーっと息を吐く。
「先輩、おかげで先生をごまかせました。ありがとうございます」
「あ、ああ……」
　この反応は源一には新鮮だった。
　いつもなら不精髭で巨漢な強面ゆえに、後輩からはなんか怖そうという目で見られるのが常なのだ。
　怖がられない。その喜びをじんわりと味わいながら、源一は頷く。
「礼には及ばない。眼鏡は……レンズを外しただけだから眼鏡屋に持っていけば直るだろう」
　口の端だけで小さく笑むと、源一はまた愛李子を追っていった。