文（ふみ）書かばや｜リアクション

文（ふみ）書かばや

◆
　日中に溢れていた春の香りが闇夜に溶け込んだ頃、微か開かれた窓からはこの時期にしてはやや冷たい風が舞い込んで。
　すぐそばで机と向き合っていた獅子目悠月の、長い赤銅の髪を繊細そうに揺らした。
　正確には悠月が向き合っていたのは一通の手紙。
　まるで呼吸すら止めているのではと思う程の静寂に包まれていた時間が、ふぅ、と浅くつかれた息によって動き出した。

「やっと読み終えた……」

　それは実家の弟からの手紙だった。
　『兄様が全然連絡下さらないから寂しいです。
　　春は帰るとのことでしたが、いつ帰られるのですか？　早く兄様に会いたいな』
　そんな出だしから、幼き頃の兄が傍にいてとても楽しかった思い出やら、家を出ると聞いた時のとてつもない寂しさと悲しさを感じたことだの、本人の近況はほんの僅かだけ交えたのみで、便箋3枚に渡って兄への思いがびっしりと綴られていた。

「花見のライブが終わればすぐ帰るが……その前に手紙くらい送ってやるか……」

　引き出しから便箋を引っ張り出しながら、ふと気付く。
　高校三年間の仮初の自由と引き換えに言い渡された、父への成績や近況などを報告する定期連絡以外に、そういえば手紙をしたためた記憶がないことに。
　正直、実家や父という単語だけで、脳裏を黒い霧がかったように先の事が見えなくなる故に、それを連想させる『手紙』には必要時以外極力触れたくはない心境ではあった。
　しかし、人並み以上に自分を慕う弟のことは、純粋に可愛いと思っているのも嘘偽りない気持ちで。そして何より、家の中で唯一、今悠月が歌を続けている事を知っている人物なのだ。
　悠月は条件反射から傷みそうになる背中を叱咤するように、筆を取り凛と佇まいを正した。

　――　書くと決めたが……何を書くべきなんだ？
　業務連絡的な、淡々とした箇条書きしか今まで書いてこなかった為、いざ書き始めようとした手が一瞬止まる。弟からの文面を思い出し、ここはやはり近況だろうかと再び筆へと力を込めた。
　ユニットを組む相棒ができた事、
　ホワイトデーのライブはなかなか上手くいった事、
　花見でも小さなステージに出る事、
　それは悠月の生きがい、命そのもの。
　歌について書ける筆は今までで一番滑らかで、文字が謳いリズムよく綴られたそれはまるで楽譜の様。

　『良ければお前も見に来い』
　指揮を締めくくるようにして添えた言葉を瞳が捉えた時、ぴたりと悠月の手が、体が、硬直した。
　それは、まだ悠月の心に渦巻く黒い霧が示す警鐘。
　――　万が一、この手紙を父が確かめたら……。
　悠月の瞳から月光の灯が消えた。
　考えただけで恐ろしい光景が蘇ってしまう、「歌」と「父」から連想されるは初めて夢を語った、父に抵抗をしたあの日の出来事。
　般若のような形相から迸る折檻の音が、今なお悠月の耳に、心の奥底に、暗く低く響いてしまう。
　激しく脈打ち出した心臓をぎゅっと抑え、今まで書いた文字事潰すようにしてグシャリと丸めた。

　新たに取り出した便箋へ、音色の聞こえない文字を走らせると早々と封筒へと仕舞う。
　その瞳には、月灯りでは無い、悠月自身の榛色に火を灯したような光が戻っていた　――