今、一番やりたいこと。｜リアクション

今、一番やりたいこと。

１

　春休みの最中、仙藤紫の部屋の階下では家族の楽しそうな声が聴こえてくる。その声をＢＧＭにしながら、紫は大学に入ってからのことを考えていた。入学準備も終え、後は入学式を待つのみだ。
　大学にはこの家から通うし、引っ越しの荷造りをする必要もなく、紫はゆるやかに予定のない毎日を過ごしていた。入学したら、しばらくはオリエンテーションだのなんだのと忙しくなる。自分だけの時間を過ごせる期間はもう短いが、だからといってその間にやっておきたいこともない。
（やりたいことはやりきってるってことなのかしら）
　ちらりとそう思うが、暇なものは暇である。
「何かやることはないかな……」

　デスクに座って窓の外を流れる雲を見ながら考える。その時、スマホの着信音が耳に入る。慣れた動作でスマホを取って画面を見ると、そこには大橋尚の名前が表示されていた。
（何かな……）
　僅かにそう思いながら電話に出ると、尚は早速話し出す。
『仙藤さん？　今、時間ありますか？』
　尚の声は楽しそうに弾んでいて、高校の用事でかけてきたのではなさそうだ。そもそも、紫はもう卒業式で卒業証書を受け取っている。だから、尚との関係は今は『先生と生徒』ではない。じゃあ何かと言われたら、コスプレ仲間……だろうか。紫は歴史物のレイヤーである先生に勧誘されたのを機に、去年の冬のネコミケでレイヤーデビューして以来、２月のイベントと参加した。
　いつのまにか、紫は立派なレイヤーだ。
「はい、大丈夫です。どうしたんですか？」
　とはいえ、生徒時代の敬語は早々抜けるものでもない。
『ゴールデンウィークのコスプレイベントについて話したいんです』
　そして尚は、元から徹底して丁寧語を使う人だ。紫が高校を卒業しても、2人の関係は何も変化しそうになかった。だが、それが少し心地いい。
「あっ！　すっかり忘れてました。待ち合わせはどこにします？」
　待ち合わせ場所を決め、紫は慌てて出かける支度を始めた。
（そういえばそんな話があった。どんなコスにしようかな……）
　身支度を整えると、紫は慌ただしく家を出た。

「仙藤さん！」
　――シーサイドタウンのカフェへ赴くと、尚はオープンテラスで季節限定の飲み物を楽しんでいた。軽く手を上げた尚は、わくわくという表現がぴったりな表情をしている。学校でのクールな雰囲気は残っていない。
　紫も季節限定の商品の中から飲み物を選ぶ。改めてお互いに向かい合い、２人は打ち合わせで盛り上がった。
「テーマは何にしましょうか」
　紫が言うと、尚は「そうですね……」と思案気に、だが嬉し気に微笑み、話し始める。
「三国志は冬ネコミケ、ローマは２月のイベントでやりましたよね」
「はい。今度は、また新しい歴史をテーマにしたいですね。歴史なのに、新しいって何かおかしいですけど」
「でも、やったことのない歴史を扱うのだから、確かに『新しい歴史』ですね」
　尚はくすくすと笑う。ＧＷのイベントに参加するとなると、日程的に結構押したりしている。急いでテーマを決めないと、衣装作りが間に合わない。
　ああでもない、こうでもない、と言っているうちに注文した飲み物はすぐに空になってしまった。
　フラペチーノでおなかがいい感じに冷えた頃で、その頃になってテーマが決まった。
「じゃあ、私が木曽義仲で先生が巴御前ですね」
「さっそくユサワヤに買い物に行って衣装作りを始めますね。仙藤さんは男性のコスだけど、綺麗な麗人になるようなコスにしてみせますよ！」
「はい、できたら次は衣装合わせですね！」
「なるべく早く合わせられるように頑張りますね！」
　尚はいきいきとした目をして立ち上がり、紫に手を振ってユサワヤへと向かっていった。
（案外、やりたいことって向こうからやってくるのね）
　その背を見送りながら、紫は苦笑気味に胸中でそう呟いた。

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