滞在時間３０分だけ。｜リアクション

滞在時間３０分だけ。

「父さん——」
　陽の落ちた墓地は静かで、大田原いいなの声以外は春風の音しか聞こえない。
　彼女は灰色の石を見つめ、アルバイト先の紙袋を握りしめた。これが神魂の悪戯だとしても、『父』に会えたのは今のいいなにとって機会だったのだと思う。

「父さん、やっと嫌な名字から解放されたよ」

　たった一言に万感の思いが詰まっている。本当に色んなことがあったのだ。いいなは眉を寄せて、震える喉から声を絞り出すようにしながら父への報告を続けた。
　いいなの口から出る言葉はいつもより優しく、父に甘える子どもそのものだ。
「叔母上の……父さんの妹の養女になったんだ。だから、昔の名字の『宇佐見』になったんだよ。
　でもね、学校では面倒だから大田原のまんまでいろって叔母上が」
　いいなはうつむきながら苦笑を零した。もう普通に笑っていいのに、解放されていいのに、未だにわだかまりが解けることはない。
　この気持ちとは一生付き合わなければならないと覚悟もしている。それでも前向きになりたいと、彼女は顔をあげた。紙袋から小さな箱を出して、墓前に供える前に父へ中身を見せた。
　イチゴのったショートケーキは、いいなに父との日々を思い起こさせる。
「バイト先の余り物だけど、あげるね。
　父さんは甘い物が大好きだったもんね。太るよって私が言っても、食後のデザート食べてたもんね」
　箱にプリントされたアルバイト先のロゴを指先で撫でて、いいなはかすかに微笑んだ。
「今ね、メイドカフェでバイトしてるの。
　……そのせいもあってかなぁ、苦手だった男性も、少しは大丈夫になったんだ。それでね——」
　その時背後から、砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。
（誰か来る！）
　庇護者を求めたいいなは、人見知りする幼子のように父の背後へ隠れた。

　　　　＊

　父の墓石の前で足を止めた人影は、いいなの知る男性だった。
「あ、弁護士のおじちゃ……」
「おや？　こんばんは」
　小林貴文は墓石の後ろからする声を聞いて、いいなの存在を認識したらしい。優しげな笑顔で挨拶してくる。
　彼はいいなが苦手な男性だが、忌まわしい名前から解放するために尽力してくれた人なのだ。いいなは勇気を出して顔を見せ、小林へ頭をさげた。
「え、えっと、色々とお世話になりました」
　小林は謙遜し、周囲に気配がないことに気づいて「今日はお一人なんですか」と静かに問いかけてきた。
「ええ……父が此方の墓に、祖母の実家、大田原の墓に骨を入れておけと、生前祖父に伝えていたそうです。
　宇佐見の墓には享年とかの文字だけ入れるようにって」
　なるべく気持ちを入れずに伝えようとするいいなに、小林は少ない相槌で返している。
（賢い少女だから、必要以上の言葉などいらないだろう）
　するといいなは、言い淀みながらも確信をついてきた。
「やっぱり『あの人』が暴いたんでしょうか、宇佐見の墓？」
　小林が答えるのに敢えて時間をかけようとすると、いいなはハッとして首を横に振った。踏み入るべきでないと言う忠告に気づいたのだ。
「すみません。あの件は証拠不十分、でしたからね。
　でもその時から小林のおじちゃ——っとごめんなさい」
「いいんですよ」
　小林が微笑ましげに言うと、いいなはようやく表情を柔らげる。
「小林さんにはお世話になりっぱなしでしたね。祖父と祖母の葬式の時まで……お世話に……」
「こちらは——、私は何もしていませんよ。
　いいなさんが頑張った結果です。胸を張ってお父さんに報告してあげてください」
　お父さんに。
　そう聞いた途端、いいなの中に感情がこみ上げてきた。それは彼女の目元を熱くするが、ぐっと唇を噛み締めて耐える。
　いいなは月下に身をさらすと、心に決めたことを誓いとして口に出した。これは恩人の小林に、そして父に聞いて貰いたい言葉だ。
「もう泣きませんよ、宇佐見いいなは、もう泣きませんから」