【そして終わりのない旅へ】

　足を開いて腰を落とし、片膝に手を乗せ、もう片方は麗しの君へと捧げます。
「改めまして、ご卒業おめでとうございます。姐さん」
　七峯 亨のそんなやり方に、矢萩 咲は瞬く間、ぽうと頬を朱に染めました。
「折角の花見日和です。桜を見ながら川沿いを歩いて、果ては海沿いにまで。ちょいと長い寄り道になりますがね、いかがでしょう？」
「ふふ。そうだな、ではエスコートはお任せするよ。亨君」
　互いの手が重なり合うのと同時に、周囲からはまるで小鳥が一斉にはばたきさえずるような、盛大な拍手が巻き起こります。祝福の声と、時折からかうような口笛なども聞こえます。
「頼むぞ、亨君。さあ、最後の制服デートの始まりだ♪」
　咲の制服からは腕章も外れ、風紀委員は今日で卒業。竹刀もひとまず置いてきました。　
　亨は着崩さずにきっちりと制服に身を固め、彼女を慕う舎弟のように、親しみを込めて。
「……ま、隙と頃合いあらば、雄に戻るのだけどね？」
「～～～っ！？　あまり咲をぞくぞくとさせてくれるなよ、まったく、君は……憎めない男だよ。本当に」
　後輩たちに見送られる中、ふたりは固く手を握り合い、校門をくぐって町へと繰り出します。



　卒業は終わりにして、新しい始まりです。咲は、誰かが語ったそんな言葉の意味するところを今、彼女自身の奥から湧き上がる幸福によって実感します。
「ふふ……変われば変わるものだね。まさか咲が、こんなふうに……」
「籠絡？」
「そう、それだ。悪い男に捕まってしまったものだ」
　思わず、苦笑い。
　３年間の高校生活の中、咲にも多くの変化が訪れました。望むと望まざるに関わらず……けれど今、かたわらには彼がいます。もっとも大きな変化の象徴たる、彼が。
　桜台を折れてシーサイドタウンの中を通り抜け、桜川沿いに南へ。ひらひらと散る桃色の花びらが咲の髪へと降りてきて、彼女を彩りました。
「咲く字の如く、か。桜が良く似合うねぇ」
　そんなことをさらりと言ってのける彼には、やっぱり頬が熱くなってしまいます。
「見てきた中じゃ、一番さ……これからもそう在り続けてくれりゃ、幸せだよ」
「ああ、もう。流れるように歯の浮くようなセリフを吐くんだ、その口は。この軟派者め」
「嫌かい？」
　自分がこうも変わってしまったものかと、咲は思います。
「……悪い気は、しないけどね」
　いつの間にこんなにも、とろとろにとろかされてしまったのか。
　小気味よく飛び出す彼の口説き文句、そのひとつひとつに、咲はすっかり舞い上がってしまうのです。
「本当に変わってしまったよ、咲は。君のせいだぞ？　亨君」
「もちろん、けじめはつつしんで取らせていただきましょうとも」
「ん。よろしい♪」
　手をつないだまま彼を引き寄せ、きゅうと腕を絡めました。
　新しい始まり……目の前に繋がる道が、彼とともに歩んでいくこの道が、あんまりにも明るくて。輝いていて。
　咲は、胸いっぱい。



　桜並木をひとたび離れて、寝子島街道へ。寄り添いながら喧噪の中をゆっくりと歩き、気が済んだところで再び桜川沿いへと戻ります。
　この時がすぐにも終わってしまわぬように、決して真っすぐには歩かず、大いに寄り道を。伊達を好む亨のこと、そんな道行きにだって、いくらでも無駄を楽しむことができました。
　ましてやこの腕に、愛しの咲のぬくもりが押し付けられているのだから、なおさらです。
「さてさて。桜を浴びるパレードの先は、船出の海で繋がればと……」
　寝子ヶ浜海浜公園に人影はまばらで、恋人たちが人目をはばからず、思う存分睦み合うのには最適です。
　亨は指差して、
「大学の辺りも、そら。島に泊まった大船のようだし、ね？」
「ああ……そうだな。咲ももうじき、あそこへ通うことになるんだな……」
　桜川をまたいで、木天蓼大学の寝子島キャンバスが遠くにちらりと垣間見え、咲は一瞬、寂しげにまつげを揺らします。
　寝子島高校の校舎でふたりが出会うことは、きっともう無いでしょう。だからこそ彼女の脳裏へ、思い出は否応なく蘇るのでしょう。
　けれどそれも、わずかの間。
「なに、心配するな。同じ島内だ、会おうと思えばいつでも会えるさ。だから……心配せずともいいよ」
　寂しいそぶりを彼に見せまいとしてか、あるいはそれ以上に輝くような未来へ思いを馳せてか、やわらかく笑みを浮かべた彼女がひたすらに、亨は愛おしく思えてなりません。
「休日には会えると信じてます。大学でもお元気で……俺より悪い狼に乗せられちゃあ、嫌ですよ？」
「悪いおおかみ……って、さすがに見くびりすぎではないか？　咲はそんな尻軽ではないわ！」
　眉を吊り上げてぷりぷりと怒ったフリも、可愛らしく思えてなりません、どうしようもなく。
　耳元へ咲が、す、と唇を近づけて、
「それに……一番悪い狼が、ほら。隣にいるわけだしね……？」
「違いない」
　くすりと顔を見合わせ、健やかな笑みを。
　片手と片手、指と指をきゅうと絡ませ、もう片方は互いの背と腰へ。
　どちらともなく、ゆっくりと焦らすように、引き寄せられていく唇と、唇。
　目を伏せふたりは、長い、長いくちづけを。
　春風が黒髪をさらりと揺らし、ひらひら飛んできた花びらたちが祝うようにくるりと踊って、風は潮風となって、海の向こうへ旅立っていきました。









　終わらせようと思い自ら締めくくる終わりもあれば、どうしようもなく訪れ翻弄する終わりもあるでしょう。
　終わりゆくことに恐怖を抱くことも、終わりゆくことに希望を見い出すことだってあるでしょう。
　つまり、終わる……とは、一体なんなのでしょうか？

　本当の終わりとは、ずっとずっと、遠くにあるものです。もっとぼんやりとして、見えづらいものです。
　目の前にはっきりと見えている終わりは、それはきっと、単なる区切りに過ぎません。

　あなたは休憩所に少しばかり腰かけて、ひと休みしているところでしょうか。それともすぐに、歩き出しているところかもしれませんね。走り出しているのかもしれません。
　少なくともあなたの目の前に、道は遠くへ、ずっと遠くへ続いているはずです。
　まぶしく輝くその向こうを、覗いてみたいとは思いませんか？　見たくて見たくて、どうにもたまらなくなってはきませんか？

　卒業とはひとつの終わりにして、新しい始まりです。
　さあ！　あなたはこれから、何を始めましょうか？