おわりの月のはじまりに｜リアクション

おわりの月のはじまりに

　旧市街のカフェ『ミルクホール』。開業した当時から布を張り替えては丁寧に使用されている二人用のアンティークのソファに、中学生の水上桜は一人で座っていた。
　スペースの３分の２を占めている大きな紙袋を、桜はそっと撫でる。店側で預かろうかと聞かれたけれど、何となく側に置いておきたくて断った。
　中に入っているのは、この春に進学予定の寝子島高校の制服だ。

　受験番号にすら一喜一憂した辛い試験を終えるとすぐ、今度は入学準備で忙しくなった。
　張り詰めた緊張感や苦しみはなかったが、実感も湧かないまま高校の制服に袖を通したあの時。
　鏡の中に居た自分は、少しだけ——ともすれば別人に見える程——大人に見えたっけ。自分に向かって浮かんだ微笑みは、高校生のお姉さんに相応しかったと思う。
　なんてね、と桜は笑いを漏らす。もうすぐ校舎で迎えらえる可愛い後輩を、店にいた高校生たちは微笑ましく見守っていた。

　それから暫し、先輩たちから高校の話しを聞いていると、桜と同じく寝子島中学から寝子島高校に進学する二人が二階から降りてきた。イリヤ・ジュラヴリョフが兄たちと言葉を交わすのを一瞥して、桜は彼の隣に立っていた日本橋泉を手招きする。
「制服どこで買った？　やっぱ『miao』？」
　泉は頷きながら桜の方へやってくる。空気が揺れると整髪料か香水か分からないがすっとした良い香りが漂い、桜は彼ならもう高校生を越えて大学生でも通用するだろうなと内心笑ってしまう。
「他のも揃えた？」
「一通り」
「私はまだこの制服とジャージと体操着だけ。靴と鞄はまた今度で、文房具類もおいおいかな。と言うか意外に準備早いのね」
「卒業のあと帰っていつ日本戻るか決めてないから、今のうちに」
　そう言えば家族が海外にいるんだっけ、桜は相槌をうつ。
「妹たちが——父さんと再婚相手のな。早く帰ってこいってさ。一番上と二番目は俺が向こういた時からだからいいけど、三人目がな。お互いよく知らねーのに何故か懐いてくれて」
　いつも余計な事しか言わない人だと感じていた泉に、長男のイメージは合致しない。桜が眉根を寄せていると、本人もその自覚があるのか、「後ろくっついてこられると、正直どうしたら良いのか分かんね」と適当にへらりと笑った。
「いいんだよそれで、僕はそれが都合が良いんだ」
　イリヤが横から話題に入ってきた。彼は両手を胸の前で組み、桜へ真剣な顔で訴える。
「兄弟の絆は絶対だよ。だから恐ろしいよ、もし泉が妹が大好きになって離れたくないと思ったらと考えると……、僕の未来のお財布がなくなっちゃう！」
「You are so mean.（＊お前酷ぇな）」
　桜は二人のやりとりを前に肩を震わせて笑い、たった少しだけ前の二月の自分を思い起こして、信じられない気分になった。
「一か月前はもう本当にテンパってるというか……でもよかった。こうしてここで他愛のない話ができて」
　入学準備はまだ残されていて、それが終わればいよいよ高校生。これからも大変な日々は続くだろうが、それはそれだ。
（どうにかなるでしょ）
　桜は心浮き立つ春へ、待ち遠しいと溢れる笑顔を向けた。

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