To you of mirrored｜リアクション

To you of mirrored

■ケース９：誰のための自分
　総回診の時間がやってくる。
　白いタイルの廊下を歩く白衣の女。深倉理紗子。
　タブレットＰＣに表示されたカルテボードをスワイプしながら、早足で院内を進んでいた。
　寝子島総合病院。その筆頭外科医である彼女の日課であり、業務である。

「この患者は退院。今日中にベッドを開けて」
　患者の顔すら見ずに述べた理紗子に、看護婦たちがきびきびと動き始める。
　対する患者はへらへらとした笑みを浮かべた。
「あのお、もう一日入院させてもらえませんか。そうすればもう一つ上の保険が適用されて――」
　患者の言葉を最後まで聞くと来なく、さっさときびすを返して次の部屋へと進む理紗子。悪態をついて罵倒を飛ばしてくる患者の声を、彼女は意識的にシャットアウトした。
　看護婦長が小声で呟く。
「よろしいんですか？　あの方の家は……」
「ここはカプセルホテルじゃないの。ベッドは足りていないし、医者も足りてない。相手がアメリカ大統領だったとしても、明日入院するであろう人間より優先されるいわれは無いわ」
「……かしこまりました」
　理紗子を阻むことのできるものはここにはいない。
　まるで海を割る奇跡のごとく、院内を歩く人々が自ら避けていく。
　実力や家柄によって権力を持った他の医者たちでさえ、彼女の将来を恐れて手出しができずにいた。
　後の院長候補。もしくは、後の医師会長候補とすら言われている。
　病院は人の怪我や病気を治す場所だが、勤める人間は巨大な政治システムの中にいる。
　表層の日本社会が生ぬるく見えるほどの、高次元の知能を要求するシステムだ。
　このシステムを維持することが日本医療の水準を保つこと直結している。
　……と、別に思ってはいない。
　そういう事実があるだけで、講習会や勉強会でそう述べてやれば若者が奮起する事実も知っているという、ただそれだけのことである。
「回診は終わりよ。次の手術に行くわ。準備を」
　手術をこなし、実績を重ねれば重ねるほど金が儲かり、自らを崇拝する人間が増えていく。
　小手先の裏技を使ってのし上がろうとする者も、実績の塔を前にすればイカロスの羽根も同然。すぐに視界から消えていく。
　きわめてシンプルなゲームだ。
　なんてつまらない世界だろう。
　理紗子はそんな風に考えながら、手術室のドアを開いた。

このページにイラストを設定する