寝子島高校ミステリ研究会の一室に三人が集まっていた。
　制服に白衣を重ねた神野 美野梨がトレイに乗せた飲み物を運ぶ。
「部長は紅茶を希望されたので私と同じアッサムティーにしたわ」
「気が利くわね」
　ブリジット・アーチャーが声の方に顔を向ける。アームチェアーに座って貴婦人と見紛う青いドレスを着ていた。円卓には洒落た洋菓子が豊富に並んでティータイムの時を待っている。
　ティーカップをブリジットに手渡す。コーヒーカップは空席の前の円卓に置かれた。
「新井くん、早くしないとコーヒーが冷めるわよ」
「うん、ありがとう。わかってはいるんだけど」
　雑然と置かれた道具の一角、新井 すばるは探し物をするように掻き分けている。黒板には文字の羅列が整然と書かれていた。
　美野梨は眼鏡の中央を押し上げて黒板とすばるを交互に見遣る。
「暗号の解読はあとでも出来るわ」
「わかったよ。冷めたコーヒーは美味しくないからね」
　すばるはウインクをした。着ていた黒いインバネスコートを脱いで椅子の背凭れに引っ掛ける。
　見届けた美野梨はティーカップを手に自身の席に着いた。
　三人は穏やかな時を過ごす。
　ブリジットが手前の焼き菓子を摘まんだ。カチューシャに付いた青い薔薇に似た、それを一口にした。小気味よい音を立てて青い瞳を二人に向ける。
「何か込み入った事件とか、起きないかしら」
「もちろん推理は必須だよね」
　すばるは足を組んで竹輪を咥える。パイプを思わせる手付きで、ぷはー、と息を吐いた。
　ティーカップを持ったまま、美野梨が落ち着いた口調で言った。
「この島にいる間は期待してもいいと思うわ。でも、超常現象の類いは論理展開が難しいかもしれないわね」
「そんな時は神頼みだよ」
　すばるはコーヒーを飲み干した。いそいそと部室の隅に行って着ぐるみの中に入る。
　赤いマントを羽織った巨大な竹輪の姿となって戻ってきた。片方の手で拝み、もう一方の掌を上に向けて独特なポーズを取った。
「ちくわくん☆大明神に代わって謎を聞いて進ぜよう」
「どうせなら謎の答えを教えて欲しいわね」
　紅茶を飲み終えたブリジットが笑って突っ込む。
「そこはブリジットさんの名推理で解決だね」
「当然ね。そのあとの決め台詞、もちろん忘れていないわよね」
　足元に忍ばせていた黄色い板を掲げる。二人に渡して艶然と笑った。
　三人は板を持って並んだ。一文字のアルファベットが意味のある言葉になる。
「三人が揃えば『Ｑ.Ｅ.Ｄ』はいただきだね」

　すばるが台詞を口にした瞬間、不可解な謎に三人は取り込まれた。
　ブリジットが周囲に目をやる。
「空かしら。理由はわからないけど」
「これは集団ヒステリーの類いなのかしら」
　白衣姿の美野梨は、それらしい態度で状況を判断した。
「違うと思うよ。ボクと同じで皆も恐怖は感じていないよね」
　すばるの言葉に、そうね、と二人は同時に言葉を返す。
「ここは本当に見えている通りの空で、神野さんの言っていた超常現象で運ばれたんだと思うよ。説明が難しいからね。それと気になるのはスカートかな」
　美野梨はスカートの部分を、そっと手で押さえた。ブリジットは下にいたすばるを足蹴にした。
「ち、違う、誤解だよ。そういう意味じゃなくて、空にいるのにスカートが翻っていないよね。落ちる速度もゆっくりでおかしいし」
　美野梨は腕を組んだ。二人の状態を見ながら考えを口にした。
「……オッド・ボール効果で説明できないかしら。私自身、恐怖をあまり感じていないから、確信は持てないけど」
「良い線いってると思うよ。身に危険が迫った時に周囲の動きが遅くなる、スローモーション現象って本当にあるらしいからね」
　二人の会話を黙って聞いていたブリジットが突然に口を開いた。
「ゾーンよ！　プロのスポーツ選手がよくいうわよね。回りがスローモーションに見えるっていう、ゾーン体験よ！」
「ゾーンなら説明できるかもしれないわね。すばるくんは、どう思う？」
「そうだね。あとは様子見かな。どれも短時間の話だと思うからね」
　三人は何もしないで落ちていく。
　最初にブリジットが動いた。すばるの横になった身体の上に乗った。
「足場が安定したわ」
「座り心地は悪くないわね」
　続いて美野梨が腰掛ける。
「不思議空間のおかげで全く重くないね」
「元々、私は重くないわ」
　美野梨の冷気を帯びた声が返ってきた。
「焼き竹輪にするわよ」
　ブリジットは蹴りながら言った。
「そ、それよりあれを見てよ。事件の臭いがするよね」
　小さな手で示す先には黒い雲が浮かんでいた。チアガールのような姿の響 タルトが落ちていく。
　三人が動向を見守っていると、間もなく猫になって現れた。サッカーボールを持った鎌八 まもるに無事に受け止められた。
　興味深い現象ね、と美野梨が呟く。
　ブリジットは一歩を踏み出す姿勢で声を張り上げた。
「すばる、でかしたわ！　ミス研はどこにいても推理を忘れてはいけない。この謎を華麗に解いて決め台詞に持ち込むわよ」
「まずはあの雲を調査したいわ。すばるくん、お願いね」
「やっぱり、そうなるよね」
　すばるは小さな手を回転させる。落下を食い止める為に両足を全力で動かした。
「風が気持ちいいわ。すばる、もう少し速度を上げてみてよ」
　ブリジットは金色の髪を靡かせて安らいだ表情を浮かべる。
「な、なんか、目的が、変わってない、かな」
　すばるの奮闘が実り、黒雲の真横に付けた。
「この雲が問題よね」
　美野梨は顔を近づけた。中を見ることは出来なかった。指先で触れてみる。
「雲のように見えるけど、感触があるわ」
　触れた指を擦り合わせる。僅かな変化に気付いて鼻を近づけた。
「指先が濡れたけど、匂いはないわ」
「触れることができる点を除けば、ただの雨雲みたいね。面倒だから皆で中に入ってみればいいのよ」
　ブリジットの意見に美野梨が頷く。
「再現実験は有効な手段よね」
「ボクは着ぐるみだからいいけど、二人はそれでいいのかな。猫になるかもしれないんだよ」
「その時になって考えればいいのよ」
　きっぱりとした発言に美野梨は、そうよね、と微かに笑った。
「じゃあ、行くからね！」
　気合の入った声ですばるは黒雲に突入した。がむしゃらに手を動かして反対側に飛び出した。
「ボクは平気だけど、二人はどんな感じ？」
「小雨に降られた感じね」
「私も部長と同じよ」
　二人は濡れた髪を手で払う。身体を揺すると青い空に小さな飛沫が舞った。
「このくらいでは乾かないわね。すばる、適当にスピードを上げて欲しいんだけど」
「いいけど、本当に身体に変化はなかった？」
「何もないわ。すばるくんにはわからないと思うけど、濡れて少し気持ちが悪いわ」
「早く乾かさないといけないね。じゃあ、張り切って飛ばしてみようかな」
　先程と同様に小さな腕と足を使って空を飛んだ。
　生じた風に二人は包まれた。美野梨の曇った眼鏡が透き通る。
「そう、きっとそうなのよ！」
　ブリジットが突然に叫んだ。目の輝きが尋常ではない。
　自然に美野梨の表情も明るくなる。
「部長、黒雲の謎が解けたのね」
「その通りよ。謎は完全に解けたわ。今回の『黒雲変異事件』の真相は」
「ボクにも聞こえるように頼むよ」
　すばるは横目になって答えを待つ。
「真相は○○○○○○よ！」
　核心の部分は突風に邪魔された。一番、近くにいた美野梨の耳にも聞こえなかったらしく、少し驚いたような表情で固まった。
「あの、ブリジットさん、ボクにはよく聞こえなくて」
「ほら、このタイミングよ。ぼんやりしないで決め台詞に入るわよ」
　いきなりの言葉に慌てた二人が黄色い板を意識して持った。行動に合わせてブリジットが宣言した。
「この事件はこれで『Ｑ.Ｅ.Ｄ』よ！」

　吹く風が細かい飛沫を飛び散らせて三人を光の粒が覆った。
　ブリジットは自信に満ち溢れた様子で風に立ち向かう。他の二人は微妙な反応で同じ思いを表現した。

　今回の事件は迷宮入りだと。

　三人は気ままに空をゆく。穏やかな目で空の果てを目指して飛ぶのだった。