バレンタインデーなんて知んねーし！｜リアクション

バレンタインデーなんて知んねーし！

　バレンタインと言われても、というのが都府楼暦の正直な気持ちだ。
　冬場は寒さで生物の活動が不活発になる。だから暦にとっての観察対象は圧倒的に少ない。とりわけ、一年で最も寒いこの時期はつまらないと言っても過言ではなかった。いくら世間がバレンタインで浮かれていようが、彼女のほうは気が沈みがちである。
　といっても沈んでばかりでは何もはじまらない。だから暦はいま、風に黒髪をなびかせながらキャットロードの裏通りを闊歩しているのだった。観察対象が隠れているのなら、こちらから会いに行けばいい。本日は薄曇りで陽射しは鉛色、暦にとっては居心地のいい天候だった。小脇にはスケッチブック、デッサン用の６Ｂの鉛筆も何本か用意している。

　この近辺を散策地に選んだのには理由があった。真冬には真冬の観察スポットがあるのだ。
　空調の室外機周りや排気ダクトは、他の場所よりも温度が高い。寒さをしのぐため身を隠している虫や小動物、イコール暦の観察対象が、案外潜んでいるのである。
　どんな観察対象がいるだろう……？
　夕方のキャットロードは、目覚める直前のレム睡眠状態だ、生き物の気配がさわさわと、暦の肌を撫でては消え、消えては撫でていく。現代の蟲愛づる姫君は、ときめきで瞳の翆を深くするのだった。
　室外機の下をのぞき込む。服が汚れるのもかまわない。場合によっては、ずりずりと潜り込んだりもする。
　――いるいる……。
　そうして暦は、数々の観察対象と出逢った。
　大抵はダンゴムシとか残念なＧの類いである。たまにゲジゲジやムカデを目にする。途中、幸運にも蜂の巣をひとつ見つけた。
　底冷えする冬を避け、じっとしている彼らの姿は、暦にとって美しく、また興味深い観察対象だ。哲学的な思考に迷い込み固まっているのだろうか、それとも、春を夢見てうたかたの眠りをむさぼっているのだろうか。ほらあの無数の脚は、啓蟄の日に跳躍するため、力を溜めているように見えはしないか――。
　とはいっても暦は、観察しスケッチするばかりで彼らに触れたりはしない。何度か痛い目に遭った経験から、そうした行いは自粛していた。
　本当はダクトによじのぼって中をのぞき込みたいくらいなのだが、さすがに泥棒と間違われかねないのでそれはやめている。その分、地を這う、あるいはうずくまる姿をひとつでも見逃すまいと、暦は四つん這い観察を続けた。
「……そち、そこでなにをしておるか？」
　背後から声をかけられ、暦は観察を中断した。
　見上げればそこに黒いドレスを着た少女が、右手を腰に当て、左手をだらりと下げて立っているのである。籐編みの籠を持っていた。髪は黒、髪型は暦によく似ている。
「おや、あなたは？」
　立ち上がって暦は、膝と肘をぱんぱんとはたく。
「表の店の者じゃ」
「定食屋かなにかで……？」
「こんな服装で刺身定食を出す店があるかえ。じゃがまあ、食事をするところ、とは言えなくもない」
　妙に時代がかった口調だが、まあそういう人なのでしょう、と暦は特に気もしなかった。それより気になるのは、彼女の言う『店』である。「いえなくもない」とはまた奇妙な表現ではないか。
「『キャバクラ』というやつじゃよ。ほれ、キャンペーンでチョコレートを配っておる。受け取るがいいぞ」
　小箱を渡してくれたので、暦は素直に「ありがとうございます」と受け取る。
「なんだかそち、学生のようじゃが……ま、わらわは昔の人間ゆえ現代人の身分はわからん。ちょっと茶話でもしようぞ。ついて参れ」
　なるほど彼女もやはり一種の虫なのだろう。虫といっても『夜の蝶』だが。
　面白そうですね、と暦は思った。こういう観察もたまには悪くない。