天使または悪魔が降ってきた！｜リアクション

天使または悪魔が降ってきた！

●その代償は

　葉利沢倫理子は暗闇の中を必死に駆けていた。
　振り返れば、後ろから不可思議な色をした霧が追いかけてきている。
　赤と青と、緑と黄色の入り乱れた、サイケデリックな霧だ。
「来ないで！」
　闇の中で倫理子が叫ぶ。
　しかし霧は無慈悲に倫理子の前に回り込むと、周囲を覆っていく。
　逃げ出そうにもどこもかしこも霧に覆われーーやがて霧は炎へと変わった。
「やめて！」
　炎の向こうから、おぞましい光景が倫理子へと上映される。
　それは三年前の光景と瓜二つの。
「もうやめて、こんなの見たくない！」
　顔。顔。顔。
　自分に向けられる顔は、その目つきが、意味しているもの。
　ダメだと思った時には、顔は全て炎へと変わる。
　炎からは血の臭いがした。
　炎が倫理子に襲いかかり、寒さを消し去るような熱い痛みが苛んでくる。
　毒蛇のごとく迫る炎に全身を焼かれ、倫理子は声にならぬ絶叫をほとばしらせた。

　息が、できない……。

「――！？」
　深夜。桜花寮の自室。
　飛び起きた倫理子が感じたのは、全身を濡らす気持ちの悪い汗だった。
　そして、早鐘を打つ胸の鼓動。
　荒い呼吸は自分のものだ。
　二段ベッドの同居人の寝息が、微かに聞こえてくる。
　どうやら、叫んでいたのは夢の中だけだったらしい。
　口を押さえていた手を離し、しゃくるように息を落ち着ける。
　あふれそうになる涙を懸命にこらえた。
　――フラッシュバック。
　夢の中の記憶は鮮明で、完全に目が醒めてしまっていた。
「……」
　時計を見れば、二時。
　夜明けまでまだ時間はあるが――今夜はもう、眠れそうにない。
　倫理子は同居人を起こさぬようにそっと二段ベッドを抜け出すと、部屋を出た。
　夜の寮の廊下は冷え冷えとしていて、窓の外からの光に青白く、ぼんやりと輝いている。
　蒼ざめて冷たい輝きを放つ月明り。それに誘われるように、倫理子は窓際に近寄った。
　綺麗な輝きは、しかしどこまでも幻想で、倫理子の手がつかむことはない。
「――」
　うつむいて立っていた倫理子は、そこで微かな音を聞いた。
　ク、
　ク。
　それが押し殺した笑い声で――それがすぐ近くにいる現れた人の気配の発しているものだっと分かって、倫理子の心臓の鼓動が一拍分飛んだ。
　廊下の奥から、囁きかけるように呼び掛ける低く、甘く、艶やかな女の声がする。
「……誰かいるの？」
　やがて暗い影の向こうから、それが現れた。
　ほっそりとした肢体に黒いドレスを纏った、光さえも飲み込むような漆黒の翼を持つ女。

　まるで影から抜け出たようなその女は、月明りに照らされて、優美とも幽玄ともいえる蠱惑な微笑を湛えていた。
　倫理子とそっくりの顔で。
「こんばんは。可哀想な私」
「悪、魔……？」
　全身をまとったぞっとする気配。
　困惑と恐怖に立ち尽くす倫理子に、同じ顔をした彼女は近づき、囁く。
「可哀想に。ずっと血と涙を流し続けているのね」
　目尻に残った涙のカケラを指ですくうと、女は優しく言葉を紡いだ。
「あなたには……堕落という救済が必要よ」
「だ、らく……？」
「安心しなさい。あなたの苦しみも、痛みも、すべて肯定してあげる」
　何も悩まず、受け入れなさい。
　自らを包み込む手が優しくて、抱きしめられた倫理子の目にこらえていたものが溢れかける。
「もう、いやなの」
「わかってるわ」
　髪をすいて流れる悪魔の指先の、その心地良さに倫理子は力を抜き、悪魔に身をゆだねる。
「忘れたい？」
　優しい声に、無言のままむなずく。
　熱いモノが、堰をきるように頬を伝いだした。
「なら、契約を」
「契、約……」
「すぐ済むわ」
　なら、なにも問題ない。
　今すぐ、この苦しみから逃げ出したい。
「成立ね」
　顎に手を添えられ、顔を持ち上げられる。
　倫理子が最後に覚えているのは、キス。
　そこで、意識は闇に包まれた。

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