猫、逃げる｜リアクション

猫、逃げる

「あっ……！」

　時系列は少し前後する。ねずの湯を過ぎ、変電所の近くを通ってやがて寝子高の裏あたりにきた頃だった。
　少しだけ、雰囲気の違う黒猫が、恵御納と神野の前を歩いていたのを見つけ、恵御納が思わず声を上げた
　その声に反応したのだろう。ぴたりと足をとめ、ゆるゆると振り向くその所作は、どこかおっとりとした風情を漂わせている。
　ちら、と首だけでこちらを振り返ってみている猫に向かい、恵御納はその場でゆっくりとしゃがみこみ、笑顔とともに声をかけた。

「こんにちは……初めましてかな、黒猫さん」
　僕は……えみな・かーさ、です。
　そう言って小さく頭を下げる恵御納。神野もまた、しゃがみこむと、じっと精神を黒猫へ集中させ、にゃー、と鳴いて見せた。

　小さく首をかしげる恵御納。それに構わず、神野は「お腹すいてない？　ちくわ、食べる？」と話しかけている。
　何か、意味がある行動なのかな……？
　そう思っていると、猫の方も、にゃあ、と小さく鳴き声を返してくる。

「んー、そっかー、いらないかー。猫おやつは？」

　そういって、神野が恵御納の手に持つ袋を指し示す。
　恵御納はそれにつられるように、袋からいくつかの品物を出して、黒猫へと示してみた。

「これ、猫さん用の食べ物だよ……食べる？」
　にゃあ。
　また、鳴き声を返す猫。まるで、僕たちの言葉が分かっているみたい。

「こっちで遊んでもらえたりは、できるのかな？」
　にじりにじりと近寄って、やはり取り出した猫じゃらしをパタパタとさせてみる恵御納。
　神野が、また「にゃー」と小さく鳴いた。なんだか、とっても集中しているみたい。

　目の前でパタパタしているそれを、じっとしばらく見つめていた黒猫だったが、一発だけ、猫ぱんちを繰り出してくれた。
　まるで、義理だけどやってあげる、というかのように。
　でもなんだかそれが、こちらを気遣ってくれているように思えて、恵御納は少しうれしく、自然に笑顔を浮かべていた。

　そうこうしているうちに、猫はまた体をひるがえし、街の方へと向かって歩き出す。
「気が向いたら、お寺にも戻ってあげてね」
　もし君が、くろねこ寺の黒猫さんなら。

　そんな心の声が聞こえたのか、ほんの少しだけ立ち止まった猫が、また、ニャア、と鳴いてきた。そしてそのあとは、振り返らずに立ち去ってしまう。
「猫は家につくものだし、無理に追いかけなくてもいずれ戻ってくるとはおもうけど」
　心細い思いをしてるかなって心配だったんだけど、そんなことはないみたいね。
　そういう神野に恵御納は問う。

「神野さんは、猫さんの言葉がわかっていいな」
「そういう風に感じただけよ」
　くす、と笑って立ち上がる神野。
「帰りましょうか？」
「……うん！」
　二人連れだって、猫の後を追うように、街の方へと向かい歩き出す。
　それぞれに、それぞれの満足感を抱えながら。
「たまには散歩させてあげられるといいんだけどね」
　ぽつり、とつぶやいた神野の声は、海から届いた冬の風に、紛れて消えていく。