プロムナードの夜｜リアクション

プロムナードの夜

　瑠住、つまり豊田華露蘿は、それからも夕顔といくつか席をまわった。履き慣れない新品の靴がなじんでいくように、キャバ嬢としてだんだんとこなれてきたように思う。
　だが、ずっと順風満帆とはいかなかった。このとき彼女は、ある種の客に遭遇してしまったのだ。
「なあ、ええやん？」
　初顔のその中年男性は華露蘿にぴったりくっつくように座り、しかも肩を抱こうとしてきた。彼女のむき出しの肩に、である。
「って、お客さん近い近い。距離は大事だよ、距離。キープキープ、車間距離」
　笑顔でごまかしていた華露蘿だが、嫌悪感で心はざわざわとしていた。税理士のときとは逆で、この男は最初こそ感じが良かったのだ。大企業の名刺を出して、しゃんと背筋を伸ばして座っていた。
　しかしそれは、酒が入るまでのことだった。ビールを数杯あおるや、たちまち男は馬脚を現した。口調は乱れ、ナマズのような目になって、
「酒の上での粗相や、粗相」
　と、酔いを言い訳に強引に手を伸ばしてきたのだ。肩を抱くのが無理と思ったとたん、男はわっしと、華露蘿の膝に手を置いた。
「！」
　もう駄目だ。華露蘿の口を、鋭い言葉がついていた。
「おさわりとかはダメだって！　ここは健全なお店なんだから！」
　しまった――と思ったときにはもう、華露蘿は両腕でどんと彼を押しのけていた。
　前髪をかきあげると、対面の席から音もなく夕顔が立ち上がった。
　笑顔だ。
　夕顔は、常と変わらぬ穏やかな笑顔だった。
　けれども、
　――夕顔さん……笑ってるのに……。
　華露蘿はすくみあがった。
　なにか黒い、ふつふつとしたものが夕顔の足元から吹き上がっているように見えたのだ。物理的なものではない。もっと精神的な、気迫とでも言うべきものだ。けれどもそれは、御影石を砕いて粉にしたような質感を伴っていた。
　怒られる、と華露蘿は思った。キャバ嬢がこれくらいのことでガタガタ言うな、と一喝されるのではないかと。
　ところが夕顔は、その笑顔を酔客に向けたのである。そして、
「お客様、そろそろお時間です」
　と、やはり笑顔のまま告げた。
　まだ時間はかなり残っているというのに。
　ところがそれを聞くなり酔客は身をかがめて、
「そ……そうだなあ。今日はこの後、用事があるんだった」
　などと白々しい言葉をいくつか告げて、こそこそと出口に向かいかけた。
「待って」
　と夕顔に背後から告げられて、男は口から心臓が飛び出しそうな顔になった。
「はいぃ！」
「お忘れ物です」
　夕顔は彼に伝票を手渡したのである。
「またおいでくださいませ」
「……はい」
　伝票を握ると、男は転がるようにして出て行った。　
「瑠住ちゃん」
　華露蘿に呼びかけてくれた夕顔は、もうこれまで通りの優しい姿に戻っている。
　手首の時計に目を落とし、彼女は告げた。
「あとは閉店まで、バックヤードを手伝うのに専念してもらえるかしら。時間がきたら帰っていいから」
「え？　でも時間は残って……」
「大丈夫、支配人には私から言っておきます。お給料はちゃんと払ってもらうので安心してね。瑠住ちゃんは十分貢献してくれた、って私は思ってるの。だから今日は、接客はここまで……ね？」
「はい、そうします」
　力が抜けて、華露蘿はその場に崩れ落ちそうになった。
　疲れた。まったく、文具店店長も、無茶な『研修』をふっかけてきたものだ。喜怒哀楽がくるくると、普段の数倍増しで訪れては去って行く数時間だった。
　でも明日は休みをもらえたし、確かにここで得た経験はたくさんあるようにも、思うし……。
　終わったら、居酒屋さんとかで飲み直そうかな――そんなことを華露蘿は考えるのである。