一日閑話｜リアクション

一日閑話

【寝子島高校の放課後】

　寝子島高校の生徒は、本日の全ての授業を終え、それぞれの行動に移り始めていた。
　普段なら運動部の生徒が元気良く外へ飛び出していくものだが、傘をさしても服が湿ってしまう雨の日だから、皆、大人しいものである。

　真っ直ぐに家や寮、部室へ向かう流れのなか、１年生の女生徒がスルリと逆走して行ったのは、校舎裏だった。
（授業も終わったし、これからは私の時間。何か面白いものがあると嬉しいですね）
　スケッチブックを握る片手をフリフリ、綺麗に切りそろえられた黒髪はゆらゆらと揺れ、すれ違う生徒には彼女の上機嫌がすぐ見て取れる。
　周りを笑顔にしていることに気づかないまま、晴れた日でさえ日陰のその場所へ、とっておきの秘密の場所に侵入するような足取りでやってきたのは、芸術科７組に所属する都府楼暦だ。

　暦は年頃の少女には珍しい趣味——生物観察——を持っていた。
　生まれつき直射日光に弱かった事情も有り、日陰でも育つ菌類や洋蘭等に傾倒している。期待している『面白いもの』とはその類だ。
　真冬の今に有名なあれそれの登場は見込めないものの、冷たい風と土に隠れて、春を待つものがしっかりと芽吹いているのを暦は知っている。例えば……

　暦は顔を上げた。
　梅の木につぼみがついているのが見えた。もう少しすれば、白と緋色で校舎裏を埋め尽くすのだろう。そんな様を頭の中に描きながら、暦は視線を徐々に低い位置へ移していく。
（水仙や猫柳はまだ早そうですけど、冬枯れの木々は、普段は木の葉に隠れてる枝振りまで見えますから……それも魅力ですよね）
　ゆっくりと歩いていくと、腕を青々と茂る葉が掠めた。
「あ——、寒椿」
　今が盛りと言うように美しい紅色を魅せる冬咲きの花を見て、嬉しさを覚える。
　この花のように——あまり馴染みのないものだが——冬に咲く花もある。
　例えば『元日草』と呼ばれるそれだ。
（学校ですから、さすがに福寿草ないでしょうけど、あったら屈み込んで見入ってしまうかも）
　ふと掠めた想像に、思わずくすりと笑いが溢れた。

　こうして暦は校舎裏を、庭を散歩するようにゆっくりと愉しみ、コレと思うものをスケッチしていった。
　ただ花々の色の鮮やかさは、数本の硬度違いの濃淡では再現しきれない。
（油彩画を描いてみたくなりますね）
　鉛筆の六角形のしりで柔らかい顎を軽く叩いて考え込む。一旦室内へ戻ろうか——と校舎の方を眺めた視界の端に、何かが映った。
　一歩足をそちらへ進めると、ボヤけていた輪郭がはっきりしてきた。
「おや？」
　暦が見つけたのは、ミノムシだ。
　まだ裸の桜の枝に、雨に叩かれながら健気にぶら下がっている。近年は外来種の寄生バエの所為で、個体数が激減し、絶滅危惧種に選定されることも増えたと言う。
　暦も実物を見たことは殆どなかったが、知識はいくつか持っていた。
　その一つはインパクトの強い画で、色紙をミノにしているカラフルな姿だ。　
　なんでもミノをはがして、細かく千切られた折り紙の中に入れておけば、そうなるのだと聞く。
　生物好き、そして芸術科に芸術家の卵としては大いに唆られる内容だが——。

（でも、真冬に蓑を剥ぐのは可哀想ですし、今日は観察だけで）
　一人こくりとうなずいて、暦はそのサクラの根元を見つめた。
（下の方にも居ますね）
　濡れた土の上で動く何かを見つけた途端、むくむく湧いてくる興味と創作意欲に、暦は思わずスカートを捲り上げた。
　靴下は跳ねた泥で汚れ、大きめのプリーツは乱れている。なにより雨で濡れネズミなのだが、熱中しすぎていて屁とも思わない。
　障害物をぽんぽん後ろに放りながら猛進する様子は、傍目からは不思議な光景にうつったかもしれないが、暦はこの『私の時間』を大いに楽しんだ。

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