ふわりと幸運は舞い降りる｜リアクション

ふわりと幸運は舞い降りる

　年代物の眼鏡の修理を終えた。浅葱あやめは軽く息を吐いた。眼鏡を掛けた状態で目頭を丹念に揉む。
「少し、疲れましたね」
　店内の時計に目をやる。浅葱眼鏡店の閉店時間、午後七時を迎えようとしていた。
　あやめはふらりと立ち上がる。店を閉める用意に取り掛かった。
「……そうでした」
　何かを思い出したように言った。
　――祖父に煙草を頼まれていました。今からですと、コンビニでしょうか。
　あやめは黒い外套を着て外に出た。ドアの施錠を済ませると表参道通りを歩き始めた。
　若い人の姿が目立つ。恋人関係なのか。腕を組んで歩いている者もいた。
　その中にあやめはひっそりと紛れた。風雪に耐える旅人の姿で薄暗い路地に入っていった。その足が極端に遅くなる。前方に若い女性の二人組がいた。原色が際立つ洋服にあやめは目を瞬いた。
　――この狭い道では追い抜くこともできません。会話の邪魔にならないようにそっと付いていくことにしましょう。
　考えた矢先にあやめは砂利を踏んだ。思いの外、大きな音がした。二人組の女性が揃って後ろを振り返る。
　あやめの容姿に女性達の顔に明らかな怯えが見て取れた。
「あの、僕は……」
　弁解の余地はなかった。女性達は揃って走り出す。遠ざかる背中にあやめは胸の中で語った。
　――怪しい者ではありません。目付きが悪いのは、生まれ付きなので、どうしようもないのですが……。
　ボサボサの灰色の前髪を手で下ろした。
「これで、いいでしょうか……」
　俯き加減であやめは路地を出た。

「いらっしゃいませ」
　明るい店内に負けないくらいの声で迎えられた。あやめは軽く会釈をしてカウンターに向かう。先に並んでいた母娘の後ろに付けた。小さな女の子は母親のスカートを頻りに引っ張る。
「ねえねえ、ママってば。このメガネ、おかしいんだよ」
「どこもおかしくないわよ」
　母親はろくに見ないで言った。あやめは少し気になって眼鏡に目を落とす。
　――テンプルに歪みはありませんね。リムにも変形は見られません。女の子は眼鏡を上下に動かしているので、おかしいとすればノーズパッドになりますが……。
　考えに耽っていると、女の子と目が合った。先程のこともあって、あやめは自ら目を逸らした。
　女の子は気にしていない様子で近づいてきた。
「ねえ、お兄ちゃんもおかしいと思うよね。だってホントにヘンなんだもん、このメガネ」
「……お兄ちゃんが、その…見てあげようか」
「え、いいの？」
　女の子は掛けていた眼鏡を外した。あやめは丁重な手付きで受け取った。真っ先にノーズパッドの部分に目を近付ける。一方のネジが浮き上がっていた。
　あやめは外套の内ポケットから平たいケースを取り出した。中には小さな工具が収められていた。一本のドライバーを手にしてネジを締めていく。そのあと、女の子の顔を見てノーズパッドの位置を調整した。
「…はい、終わったよ。これでおかしくないと…思うよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
　女の子は眼鏡を掛けた。髪を乱して頭を振った。
「ホントだ。おかしくないし、ヘンじゃない！」
「ありがとうございました。あの、代金は」
　二人の様子を見ていた母親が財布を手にしていた。あやめは掌を前に出してやんわりと断った。
「今日の営業は……終わりましたので…代金は結構です」
「本職の方でしたのね」
「…はい、表参道通りで…浅葱眼鏡店を、経営しています。御用の際は、お立ち寄りください……」
　少し硬い声ではあったが思いは伝えた。母娘は朗らかに笑って店を出ていった。女の子は外に出ても手を振っていた。
　あやめは笑わなかったが、小さく手を振り返した。
　――こんなことも、あるのですね。
　どこか安らいだ表情で母娘の姿を見送った。

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