ふわりと幸運は舞い降りる｜リアクション

ふわりと幸運は舞い降りる

　羽生碧南は夕方に桜花寮に帰ってきた。部活動のバスケットボールに精を出し、その名残が頬を仄かに染めていた。早足で宛がわれた部屋へと向かう。
　部屋に入った途端、身を震わせた。
「軽くシャワーでも浴びようかな」
　碧南は汗で湿った前髪を掻き上げて言った。
　言葉通り、数分でさっぱりした顔になった。碧南はジャージ姿で早々とベッドに寝転んだ。眠る気はなく、手には携帯ゲーム機が握られていた。
「今日は絶対に亜門くんを攻略するわ」
　目を輝かせてゲームにのめり込む。
　数時間後、腹部が鳴って夕食の時間を告げた。碧南は別れ難い表情で電源を切った。
「さようなら、亜門くん」
　悲しげな声で部屋を出ていった。
　食堂では人が変わって育ち盛りの少年のようにご飯を掻っ込んだ。最後は手を合わせて、ごちそうさまでした、と笑顔で席を立つ。
「今日も美味しかったよ」
　食器の返却の際、感謝の言葉も忘れない。歩きながら首の辺りに手をやると少し汗ばんでいた。碧南は二度目の入浴を決めた。
　のんびりと過ごしてＴシャツ姿で食堂に戻ってきた。暖房が効いているので寒さは全く感じない。
「これでも暑いわ」
　手を扇いで顔に風を送る。涼しさが感じられないのか。自然に目は冷たい飲み物に向かった。ジャージのポケットに手を入れて、あれ？　と声を漏らす。
「小銭がなかったよ」
　踵を返した瞬間、全てが黒に染まった。
「え、なんで。もしかして停電？」
　両手を前に出して感覚だけで動かす。平たくて冷たい物に触れた。
「これはテーブルね。イスがこれで」
　テーブルに手を触れたまま、ゆっくりと回り込む。すると脛に硬い物が当たった。痛さで足が止まる。
「なんでこんなところにイスがあるのよ」
　イスは明らかに飛び出していた。他にもあるかもしれない。碧南は、うーん、と低く唸った。
　――こんな時だから落ち着くのよ。脱出ゲームの攻略と同じよ。明るい時を思い出して。イスはちゃんとテーブルに寄せてあった？　他に当たったら危ない物とかは？
　そこで思考が途切れた。
「これって無理ゲーだよね？　食堂を出ても真っ暗なわけだし」
　碧南は天井を仰いだ。もちろん何も見えない。
　その時、世界が戻った。何事もなかったかのように明かりが点いた。
「え、なんで」
　嬉しさよりも戸惑いの方が大きい。事情を聞こうにも周囲に人の姿はなかった。取り敢えず、碧南は飛び出していたイスをテーブルに寄せた。
「あのイスも気になるわ」
　目に付いたイスを奥に入れる。他の物も見て回って正しい位置に収めた。
「うん、これでいいわ」
「あら、碧南ちゃんがいたのね」
　のんびりとした声で寮母の座間トシコが現れた。腰の曲がった姿で歩み寄る。
　碧南は労わるような声で言った。
「さっきの停電、トシコさんはだいじょうぶでした？」
「ああ、あれね。びっくりしたわ。はたきで配電盤をポンポンしてたら、急に暗くなってねぇ」
「え、それって」
　その先は言い出せなかった。
　――トシコさんが誤ってブレーカーを切ったのね。
　胸の中ではしっかりと語っていた。
「碧南ちゃん、寒そうな恰好をしているわね。そうそう、取って置きのお茶があるから淹れてあげるわね」
「ありがとう」
「玉露だからね。みんなには内緒よ」
　トシコは、ふふ、と柔らかい笑みで厨房に入っていった。
　碧南は適当なイスに座って待つことにした。
「これも幸運の類いなのかな」
　胸の辺りがじんわりと温かい。そんな表情を浮かべていた。

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