寝子島怪異録（白影黒影編）｜リアクション

寝子島怪異録（白影黒影編）

　桜花寮の一室、パジャマ姿の恵御納夏朝が俯せに倒れていた。
　唸るような声を漏らしてのろのろと起き上がる。少し赤くなった額を摩りながら振り返ると、床に靴下が落ちていた。バナナの皮のような曲線を描き、足で踏むとよく滑る。
「この靴下が原因だね」
　額の痛みが治まったのか。夏朝は冷静な目で周囲を見回す。机上のカレンダーに目が留まる。今日の日付に丸印が付いていて、余白に小さな文字で内容が添えられていた。
「一日バイトの日か」
　口にして今度は両手で頭を押さえた。
　――頭をぶつけたショックで今は夏夜なんだよね。でも、夏朝のバイトを僕がダメにしたら、本人が悲しむだろうし。
　悩みながらも情報を探り出す。バイト先は飲食店で簡易地図も手に入れた。
「自信はないけどね」
　力ない笑いで着替えを始めた。猫耳の帽子を被り、オレンジ色のコートを羽織る。
「少し寒いかも」
　出掛ける寸前に胴長の猫のマフラーを首に巻いた。覚悟を決めたような顔で夏朝は部屋を出た。

　眩しい朝陽の中を夏朝は歩いた。
　丁字路に突き当たって足を止める。コートのポケットから簡易地図を取り出した。
「こっち、ん、白い影？」
　右方向を見たまま、夏朝は訝しげな目を傾ける。少し風が吹いて前方の日溜りがゆらゆらと動いた。
　その様子に納得したのか。夏朝は歩き始めた。先程よりも元気よく、弾むようにしてバイト先に到着した。
　いそいそと店舗の裏手に回って従業員用のドアから中に入る。ソムリエエプロンを着用した店長が腕時計を見ていた。夏朝はにっこりと微笑んで近づいた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「おはよう。何か良い事でもあったのかな」
「特に何もありませんよ。でも、爽やかな朝が、そんな気分にさせるのかもしれないですね」
　軽く会釈をして夏朝は更衣室へと向かった。手早くエプロンドレスに着替えてホールに出る。
　開店と同時に客が訪れた。夏朝は伝票を持って忙しなく動いた。時間が経つに連れて客足が伸びる。
「いらっしゃいませ！」
　夏朝の明るい声は自身の表情も輝かせた。訪れる客を笑顔で席に案内した。小さな子供には専用の椅子を素早く宛がう。そしてホールとキッチンを足早に往復した。
「ここはなにがおいしいの？」
　椅子に腰掛けた小さな女の子に聞かれて夏朝は足を止めた。傍にいた母親が困ったような表情で笑って、ダメよ、と小声でたしなめた。
　夏朝は少し屈んで女の子の目を見詰める。
「どれもおいしいよ」
「そうなの？」
「でもね。その中でもチョコレートとフルーツがいっぱいの、プリンアラモードがおいしいよ。他のお店の人にはナイショにしてね」
　夏朝が悪戯っぽく片目を閉じて笑う。女の子は笑顔で、わかった、と頷いた。遣り取りを聞いていた母親は早速、デザートを注文した。
　夏朝の去り際、母親は呼び止めるように言った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ご注文、ありがとうございました」
　柔らかい笑みを返し、キッチンへと向かう。
　――なんか、楽しいかも。
　心からの言葉を胸に留めてバイトに励んだ。

　一日の給金を貰った帰り道。夏朝は程良い疲れの中にいた。明るい店舗を見つけると自然に目がいく。
　――あの白い影の影響なのか？　今日の僕は少しおかしくて、だけど嫌いじゃないかな。
　口角に微かな笑みを作り、雑踏の中に紛れていった。

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