【大晦日】旧市街の夜と朝｜リアクション

【大晦日】旧市街の夜と朝

【紫、過去を思い出す】

　仙藤紫の大晦日は、旧市街の蕎麦屋『すすきの』の年越し蕎麦を、家族４人で揃って食べるのが恒例行事だった。
　彼女が今年注文したのは天ぷら蕎麦だ。
　サクサクしたコロモの油で形の良い唇を濡らしていると、家族の話題が紫の来年入学予定の大学の話にうつる。
　そう、紫は今年高校三年生だ。本来なら今頃は同級生たちのように、大学入試の運命を決める試験直前で、大晦日どころではないとあっぷあっぷしていた頃だろう。
　しかし紫はすでにＡＯ入試で入学を決めていた為、こうしてゆったりと年末を過ごせていた。
　家族はそれを褒めてくれるが、紫は「皆に申し訳ないくらいよ」と苦笑してしまう。
　今年の大きな話題はそれかと笑い合う家族の中で、しかし紫自身にとってはもっと大きな、転換期となる出来事があったのだ。

　

　

（去年の大晦日は、あの人と一緒だったわね……）
　あの人——。もはや懐かしくもある、かつての恋人の事だ。
　去年の大晦日は何時ものように家族と一緒に過ごした後に、彼と漁港で初日の出を見た。
　あの日、眩しい朝日へ向かって何をお願いしたのか。紫には思い出す事が出来ない。
　初詣に行こうとわざわざ帰って着替えた晴れ着の柄は思い出せるのに、長い黒髪をどんな風に結ったか、つけた飾りまで思い出せるのに——もしかすると彼の顔すらも思い出せないのかもしれない。
　それが分からないのは、彼との別れが紫にとって、大きな痛みになっていたからだ。
　始まりも終わりも淡々としていて、恋と言うには落ちつき過ぎている静かなそれだったのに、終わりの痛みは今もじくじくと紫の胸を刺している。
　——全ては昔の事。と、頭の中に描くには、あまりにも辛い記憶だった。
　ため息こそ出なかったが、苦い思い出は紫の美しく白い肌に影をさしていた。なまじ集中力が高いせいで、一つの事を考えると、深く入り込んでしまう癖があるのだ。
　それまで蕎麦を美味しく食べていた箸は、丼の上を定位置に、すっかり動かなくなってしまった。
　談笑している両親は紫の様子に気付かないが、目敏いのが一人居る。
「……もしかして元彼の事？」
　などと妹に突っつかれると、紫らしくもなく「馬鹿言わないでよ、そうじゃないわ」と声を大きくして返してしまった。そして自分で自分の声の大きさに驚いて、紫は深いため息を吐いた。
「そんなことをいう悪い子には罰を与えないとね」
　だから妹の丼からひょいっと取り上げた海老天を、抗議の前に胃に沈めてしまった事くらい、茶目っ気で許されるだろう。

＊　＊　＊

「ほら、綿菓子。これで恨みっこ無しよ」
　——海老天の借りは随分高くついてしまった。
（まさかワンコインで買えないなんて）後悔のため息をつきつつも、妹の明るい声が沈んでいた気分を晴らしてくれた。
　神社で飲んだ甘酒も、心に沁みいるような温かさだった。
「あと数時間もすれば、また新しい一年なのね」
　恒例の家族行事が終わりに近づいても、紫にはまだ実感が湧かない。
　それでも来年が良い年である事を願いながら、人混みの中を足元に気をつけて家族と帰路についた。