土曜日は島外で｜リアクション

土曜日は島外で

　ピアノを愛する高校生、市橋誉の将来の夢は、ジャズピアニストである。
　彼はこの休日を利用して、東京の有名な『ジャズ喫茶』へと足を運んだ。
　有名と言っても「知る人ぞ知る」の類で、名前を出して街の人が「あそこね」と答えてくれるような店ではないから、スマートフォンで何度も地図を確認しながら、入り組んだ路地を進む必要があった。
　地図上にある現在地を示す青い丸が目的地に近づくにつれ、彼の心臓はどきどきと早鐘を打つ。
　この店の事を知ってから、ずっと憧れてきたのだ。
　行くと決めたのも思い切ってで有り、感情的にいくつものハードルを越えてきた。遂に自分があの場所に降り立つのだ、と思うとそんな風にもなってしまうのだろう。
（あと少し……、いや、この辺りか？）
　誉がふっと顔を上げた時、彼の眼の前に建物が現れていた。

　その店は元々大正後期に建てられた、旅館だったらしい。
　店内はレトロでどこか懐かしさを感じさせる。
　この手の店と言えば誉も関わりのあるミルクホールがあるが、家族経営で和やかなあそことは一線を画した、——ともすれば客の方が萎縮してしまいそうな程——スタイリッシュな雰囲気のある、独特な空間だった。
「素敵なところだ……」
　と思わず口から零れてしまう。
　なにしろ誉が座っているバーカウンターの椅子一つとっても、拘りを感じさせるのだ。入り口から感じていたこの店の敷居の高さを再確認して、まだ高校生の彼は雰囲気に圧倒されつつも、息を吐いてから珈琲を注文した。
　自家焙煎の珈琲の香ばしい薫りが、鼻腔をくすぐる。味も勿論最高だ。
「美味しいです」
　誉が素直な感想を漏らすと、カウンター内にいるマスターが微笑んで返した。
「有難うございます」
　低い声で一言。年嵩が醸し出す渋い格好よさに、痺れてしまいそうである。
「本日のケーキセットもお願いします」
　注文して出てきたガトーショコラ、焼き菓子付きのバニラアイスの豪華さに、誉は喉の内で「くうう」と声にならないものを吐き出していた。

　さて、ゆっくり夕方の間食を楽しむ間に、店の中が騒がしくなってくる。
（そろそろか……？）
　誉がそわそわとこの日何度目かの時刻の確認をした時、奥の壇上に彼が目当てにしていた人物が現れた。
　洒落たスーツをさらっとラフに着こなす４０代の日本人男性——誉の憧れる、ジャズピアニストである。
　店内の照明が落ちて、壇上を青い光が包み込む。
　ピアニストの丸めた手がくっと開き、トーン……と鍵盤を叩いた、そのたった一音で、誉の胸にぞわりと風が駆け抜けた。
（確かなテクニックに裏打ちされた繊細な演奏。なのに、過激に跳ねる音。
　何処までも自由に跳ねて、感情を歌う音が心地良い）
　ピアニストの手は鍵盤の上を流れ、跳んで、音とリズムを紡いでいく。一つの音が重なり合って美しい和音となるように、いつしか観客の心も一つとなっていた。
（ああ、俺もこんな風に弾きたい……！）
　うっとりと聴き入った時間へ、誉は割れんばかりの拍手を贈った。
　これは、彼が夢見ている世界そのものだ。
（……頑張らないとな）
　意気込む少年の未来を見る瞳に、マスターはふと優しい笑みを見せていた。

　名残惜しい気持ちを残しつつ、誉は持ち帰りのケーキを持って暗い道を戻っていた。
　胸に残るのは音楽と、美味しい珈琲の記憶だ。
　この興奮を誰かに伝えたいと思った時、頭に兄の姿が過る。
（——実家に寄って帰るか）
　この話をしたら、兄は羨ましがるだろうか。楽しい思い出が生む想像は尽きない。
　——またアルバイト代を貯めて、この店に行こう。
　もう微かにしか見えない建物を振り返り、誉はマスターへ、ピアニストへ、あの店の全てへ向かってそっと頭をさげる。
（良い時間を有難うございました）

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あとがき

担当マスター：東安曇
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シナリオにご参加頂き有難うございました、東安曇です。

クリスマスを前にした休日、お楽しみ頂けましたでしょうか。個性的で楽しいアクションを頂き、かなりノッて執筆致しました。有難うございます。

いよいよ年末を迎える寝子島で、また皆様とお会いできれば幸いです。

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