あの日の約束｜リアクション

あの日の約束

　寝子島シーサイドタウン駅のホームは朝から人で混み合っていた。どこを見ても長い列が出来ていて、その一つに深倉理紗子の姿があった。黒いコートに身を包み、中程に並んでいる。緑の瞳は前の方にいた姉妹に向けられていた。
「あたしが先に行くから、あんたは後ろからちゃんと付いてくるのよ」
「それはいいんだけど。こんなに人がいるし、座れないんじゃないかな」
「あんたはあたしの背中を見ていればいいのよ」
　勝ち気な姉の言葉に妹は、うん、と小さく頷いた。
　何とはなしに理紗子が見ている間に電車が到着した。開いたドアに向かって一斉に列が動き出す。姉妹は人に押し潰されるようにして見えなくなった。
　流れに翻弄された理紗子は対面のドアの横に付けた。手すりを握ると横から声が聞こえてきた。
「ちゃんと付いてくればいいのに」
「人がいっぱいで無理なんだもん」
　先程の姉妹であった。姉は座席の端に座っていた。妹は前に立って泣きそうな顔をしている。
「ホントにあんたはダメね」
　姉は文句を言いながら妹に席を譲った。いいの？　と下から問われてそっぽを向く。
「よくないけど仕方ないじゃない。あんたは体が弱いんだから」
「ありがとう、お姉ちゃん」
　二人の遣り取りを理紗子は黙って見ていた。
　電車がゆっくりと動き出す。理紗子は窓の外の海と向き合った。海面に反射する眩い光に目を細めて、お姉ちゃん、と人知れず呟いた。

　机上の時計は夜の十一時を迎えていた。医師国家試験を間近に控えた理紗子は気にする素振りも見せない。積み上げられた専門書の谷間に頭を突っ込んで、ひたすらに勉学に励んでいた。
　部屋のドアが開いても全く気付かない。背後に忍び寄る気配を読み取れず、ノートにペンを走らせる。両目を手で塞がれると流石に慌てふためいた。
「理紗ちゃん、根を詰め過ぎよ」
　優しい声と共に理紗子の視界が戻った。後ろを振り返ると四歳年上の次姉の紗智子が笑っていた。
「お姉ちゃん、びっくりさせないでよ」
「お姉ちゃんがびっくりしたわ。こんな時間に部屋の明かりが点いているのだから」
　紗智子は少し目で怒って机の端に置いたお盆を手にした。白い湯気の上がる湯呑を手渡す。
　湯呑を両手で包んだ理紗子は、温かい、と言って縁に唇を寄せる。一口をじっくりと味わい、硬い表情を和らげた。
　心まで解れたのか。小一時間、紗智子との会話を楽しんだ。
「長く話してごめんなさいね」
「そんなことないよ。少し楽になれたかも」
「それならいいけど」
　紗智子はお盆を手にドアへと向かう。去る間際、労わるような目で振り返った。
「理紗ちゃん、あなたは弱い人の気持ちに寄り添える人だから、きっと良いお医者様になれるわ」
「ありがとう、お姉ちゃん」
「でも、無理はしないでね。良いお医者様になるには、自分も大切にしないと」
「わかったよ。医者の不養生なんて言われたくないからね」
　理紗子は苦笑して開いていたノートを閉じた。

　車内が少し揺れた。理紗子は隣の姉妹に目をやり、再び窓外の海を眺めた。
　電車は寝子島大橋に差し掛かる。車内は走行音に満たされた。
　理紗子は海に向かって呟く。
「……お姉ちゃん、あの時の約束を破って、ごめんね……過労で倒れるなんて」
　心優しい次姉はすでにいない。理紗子の身体を心配した翌日、急性クモ膜下出血で帰らぬ人となった。
　理紗子は唇を固く結んだ。
　わたし、職場に復帰したよ。お姉ちゃんとした約束を今度は守るから。経験を積んでいつかはお姉ちゃんに言われた――。
　胸中の言葉を途中で切った。想いは直接、次姉が眠る墓に伝えることにした。
　多くの人々を乗せて電車はひた走る。

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