あの日の約束｜リアクション

あの日の約束

　夕飯を終えた弟妹は機嫌よくテレビを観ている。その間に鴻上彰尋は慣れた手付きで洗い物を済ませた。
「少し休めるかな」
　ほっとした表情で近くの時計に目をやる。自室に移動しようとした、その時に長男がスーツ姿で現れた。
「今日は帰りが遅くなるって聞いたんだけど」
「飲み会が急になくなったんだよ。そこでこれだ」
　長男は古い雑誌のような物を掲げて見せた。途端に彰尋の目付きが変わる。
　祖父が遺した台本だ。あれはかなり読み込んでいる。今日こそ、全てを答えることができるかもしれない。
　彰尋は長男に向かって静かな口調で言った。
「集中して答えたいから俺の部屋で読み合わせをしよう」
「その方が良さそうだな」
　二人は弟妹の方を窺う。観ているテレビの画面に終わりを告げるテロップが流れていた。
　部屋に移動すると長男はネクタイを緩めて適当に座った。彰尋は机の椅子に腰掛けて軽く息を吐いた。
「読み合わせを始める前に確認したいことがある」
「どうした、急に」
　真剣な表情を受けて長男は胡坐の姿勢で背筋を伸ばした。
「兄さんの台詞のあとを一字一句間違えないで答えられたら、祖父が劇中で使っていた扇が貰えるんだよな」
「模様が気に入って俺が譲り受けた物だが、約束は守る。それと期間は迫っているが焦る程ではないだろう。気楽に挑戦して欲しい」
　その言葉に頷きそうになる。彰尋は厳しい表情で気を引き締めた。
　十五才の間に答えればいい。その言葉にどれだけ慰められて、甘えてきたことか。ここで子供の時からの遊びに終止符を打つ。
「これが最後のつもりで答える」
「そうか。本気の相手に失礼のない問題に変更するか」
　長男は台本を開いた。左右に目を動かして次々と頁を捲る。その手が止まった。宝物を見つけたような目の輝きで台詞を読み上げる。
「あなたはどうして、そのような嘘を吐くのですか」
　耳にした瞬間、彰尋の頭の中に続きの台詞が流れ込んできた。それは言葉の濁流であった。分解された文字を正しい位置に嵌め込まないといけない。
「長台詞だね」
「そうだな。時間にして四分くらいになる」
「少し時間を貰ってもいいかな」
「もちろんだ。ただし誕生日が来る前には答えてくれよ」
　彰尋は笑った。頭の中の濁流が瞬く間に穏やかとなり、散らばった個々の言葉が鮮明に見える。慈しむように拾い上げて組み上げていった。
「……兄さん、続きを始めるよ」
　長男は台本に目を向けて、始め、と合図を送った。
　彰尋の口から静かに台詞が流れた。抑えた口調は半ばで崩れ、感情を露わにした。勢いよく椅子から立ち上がって見えない相手に激しい想いをぶつける。やがて自責の念から弱々しい自分を曝け出す。一人では立っていられないと足元をふら付かせた。
　熱の籠った演技を交えて彰尋は最後の台詞を口にする。
「そんな俺の全てを愛してくれ」
　終わった直後に長男から拍手が送られた。彰尋は上気した頬で照れ笑いを浮かべて怖々と結果を尋ねた。
　長男は小難しい顔で腕組みをした。
「本当に残念でならない」
「どこか間違えたのか？」
　身を乗り出す彰尋に長男は笑って手を振った。
「扇を手放す俺の立場にもなれよ」
「なんだ、そんな意味か」
　彰尋は椅子の背に深くもたれた。顔を上げてぼんやりと天井を眺める。
　ようやくあの扇が手に入るのか。それにしても長かった。祖父が生きている間に決着を付けたかったよ。
「おめでとう、これが賞品の扇だ」
　長男はスーツの内ポケットから扇を取り出した。最初から用意されていたことに彰尋は胸を熱くする。
「ありがとう」
　長男と扇に向かって深々と頭を下げた。

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