自らの船（イカダ）に颯爽と立つ剣崎 エレナは、白いねこ耳と救命胴衣を着用していた。
「さあ！　一番乗りを目指すわよ！」
　と、ゴールを指して機嫌よく宣言するその姿に、八十八旗 信彦はパドルを漕ぎながら胸の内で息を吐く。
（ダメもとで奨めてみたけど、救命胴衣、着てくれてよかった。エレナちゃんは俺が守るよッ！）
　面白いことが起こりそうだという好奇心もないではないけれど、レディを守るのも紳士の務め！　という信彦の気持ちは本物だ。
　心の拳をぐっと握りながら、信彦、一つ深呼吸をしてエレナへと声をかける。
「ねえ、エレナちゃん。エレナちゃんのバレエなら、お三夜さまも大喜び間違いなしだろうね」
　突然に常からたしなむバレエを褒められて、エレナの背中がぴくりと跳ねた。
「と、当然よ。当たり前のことを言わないでちょうだい、八十八旗君」
　ちょっとどもってぷいっと向こうを向いてしまったのは、怒っているのではなく照れているのである。
　信彦、微笑ましさにエレナに気づかれないよう口元を緩めて、言葉を続ける。
「だけど、他の有象無象に混じってしまってはエレガントさに欠けてしまうと思わないかい？」
「……どういうこと？」
「まさに月に叢雲、花に風ってヤツさ」
　自分の方へと怪訝な顔を向けたエレナに、にこりと微笑みかける信彦。
　エレナが、ふっと笑みを漏らした。
「ままならない、ということね。風流な言い回しをするじゃない」
　どうやら、掴みは上々の様子。
　けれど、信彦の最終目標は彼女が踊り出すタイミングを遅らせることにある！
　勝機アリと見て、信彦は一気に畳み掛けにかかった。
「だから、しばらくは筏を漕ぐことに集中して、一番注目されているであろうお社の近くになってから踊ろう？　いや、寧ろお社に魚を奉納してから踊ろう？」
「奉納してから？　でも、それじゃあ……」
「エレナちゃんのバレエが！　神楽舞というわけさ！　やー、楽しみだなー！」
　ね？　ダメかな？　と首を傾げてみせれば、褒められるのは苦手なエレナはそれを表情には出さないまでもついと視線を逸らし、
「そこまで言うなら、今回はあなたの顔を立ててあげるわ」
　と、大人しくパドルを手に取った。ミッションコンプリートである。
（よし、上手くいったようだね。このまま無事向こう岸に着けばいいけど……）
　――人は、それを『フラグ』と呼ぶ。

　財前 華蓮と畑中 華菜子もまた、自分達のイカダで湖へと漕ぎ出していた。
「さぁて、畑中さん、一緒に頑張りますわよ！」
「はいアル！　エレナ号には負けませんアルヨー！」
　というわけで、せっせとオールを漕いで湖を進んでいく２人。だが、
（……って超疲れますわねこれ！）
　イカダで湖を進むのはなかなかの重労働だった。
　華蓮、懸命に手を動かす健気な後輩をそっと見遣って、こそり。
「畑中さん、これは相当カロリーを消費しますわ」
「カロリーを消費、ですアルか？」
「そう！　このオール漕ぎでダイエットからの女子力アップ！　ですわ！」
「おおー、女子力アップ！」
「というわけで、頑張りましょう、畑中さん！」
「わかりましたアル！　もーっと一生懸命漕ぎますアルヨー！」
　憧れの先輩に鼓舞されて、華菜子はますます気合を入れてオールを漕ぐ。
　一方の華蓮は、華菜子のことを焚きつけておいて自分はちょっとサボり気味。
　それでもイカダが妙な方向に進んでしまわない程度には手を動かしていたので、そのうちに２人の金ぴかイカダは、先を行っていた剣崎 エレナのイカダに追いついた。
「あっ！　財前先輩、きっとあれが剣崎先輩のイカダですアルヨ！」
「どれどれ、やっと剣崎さんのイカダを見つけま……ってでかぁ！？」
　そう、エレナ号は中央にエレナが踊るためだけのスペースがあるほどに大きいのである。
　華蓮、ライバルのイカダの豪華さにくっと唇を噛み締める。
「なんですのあれは！　私のイカダより目立ってるじゃありませんの！」
「おっきくってすごいですアルー」
「畑中さん、感心してないで！　くぅ～！　こうなったら剣崎さんを煽って転覆させますわ！」
　言うや、華蓮はすっくと立ち上がった。
　向こうのイカダにいるエレナと八十八旗 信彦が、華蓮たちのイカダの存在に気づく。
「あらあら財前さん、随分と小さなイカダに乗っているのね。それとも、私のイカダがビッグでリッチでゴージャスすぎるだけかしら？」
「あっ、ぜんざいカレー先輩！　やっぱり来た！」
「お黙りなさいな剣崎さん、イカダは大きさがすべてじゃありませんことよ！？　あと八十八旗さん、今何気に言ってはいけないことを言いましたわね！？」
　揺れる水面を挟んで、２枚のイカダの上はもうしっちゃかめっちゃかだ。華菜子だけが、
「財前先輩と剣崎先輩のアイドル対決っ！」
　なんて、無邪気に表情をきらきらさせて事の行く末を見守っている。
「間近で見られて嬉しいですアルー。どちらの先輩も素敵で私の憧れなので頑張って欲しいですアルネー」
　華菜子がわくわくとして、信彦が面白がる気持ち半分不安半分で見守る中、今、戦いの口火が切られる――！

「や～いデブコロネ～！　そんな体で本当に踊れるんですの～？　や～いばーかばーか！」
「まさかの小学生並みの煽り！？」
　華蓮の口からとび出した悪口のレベルの低さに信彦が思わずつっこむが、ふと横を見ると、エレナは怒り心頭といった様子で顔を真っ赤にしてぷるぷるしている。
「エレナちゃん、そんな真っ直ぐ受け止めなくってもいいんだよ！？」
「財前先輩、何だかすごく効いてる感じがしますアル！」
「よっし！　ほら、畑中さんも一緒に！」
「了解ですアルヨ！　ばーかばーか！　ですアル！」
「くっ……！」
「え、エレナちゃん落ち着いて！　ね？」
　しかし、自分を宥める信彦の声はエレナの耳には届かず――彼女はその場で、優雅にクラシックバレエを踊り始めた。
「さあ、目に焼きつけなさい財前さん！　私の優雅な舞いを……」
「って、ああ、沈む！　エレナちゃん、イカダが！」
「えっ？　や、やだ、ちょっと……！」
　華蓮がほくそ笑み華菜子が瞳を瞬かせるその目の前で、エレナ号が端からぶくぶくと湖に消えていく。
　あわあわするエレナの隣で、沈没の覚悟を決めた信彦はエレナへとジェントルに手を差し伸べた。

「エレナちゃん、折角なら散り際も美しく見せようじゃないか」
　沈みゆく船に男女が２人とくれば、思い起こされるのはかの有名映画のあのシーンである。
　信彦の意を察し、こくと頷いたエレナがすっと両腕を広げる。それを、信彦が支えた。
　ＢＧＭが聞こえそうなロマンチックな雰囲気をかもしつつ、２人は冷たい湖へと沈んでいく――。
「オーッホッホッホ！　あのおバカさん本当に沈没……」
「ざ、財前先輩！　こっちにも水が！　アル！」
　エレナ号沈没の余波で、気づけば華蓮たちのイカダもずぶずぶの水浸しだ。
「ううっ、もう腕が痛いですアルが、最後まで諦めないですアルヨー！」
　華菜子が必死にオールを漕ぐが、時すでに遅し。
　華蓮と華菜子のイカダもまた、金の光を散らしながら湖へ消えゆくのであった。
「あわわ、私、泳ぐのもあんまり得意じゃないですアルヨ。でも、犬かきならぬ猫かきで頑張りますアル！　にゃんにゃんアル！」
「は、畑中さん意外と余裕ですわね……ってほぎゃー！　足っ！　足攣った！」
「おおう、ぜんざい先輩大丈夫？」
　きちりと救命胴衣を身に着けていた信彦が、溺れかける華蓮を回収する。
　立ち泳ぎをする信彦にしがみつきながら華蓮は声の限りに叫んだ。
「ああもう、それもこれもぜーんぶ剣崎さんのせいですわ！　許すまじ！」
　間近で大声を上げられて耳がキンキンと痛むのを感じながら、
（これは果たして役得と言えるのかな……？）
　と、信彦は心中で苦笑するのだった。