天使が瞳をひらくとき｜リアクション

天使が瞳をひらくとき

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とても嫌なことがあった。
それを忘れたくて、外へ飛び出して。訳も分からずに歩きまわって、九夜山にまで足を運んで。そうして気がついた時には、城山水樹はここにいた。
天使の像がひっそりと祈りを捧げている、白薔薇に覆われたこの廃教会に。
静まり返った夜の九夜山に、響くのは水樹の荒い息だけ。見ているのは、空の月だけ。
肩で息をし、額にかかる前髪を乱暴に払う。いつものさばさばとした風も、美貌も、その姿からは感じられない。
月明かりを頼りに、まだ座れる椅子を見つけて腰を降ろす水樹。
何をするでもなく、まんじりとしない時を過ごす。しかし気が晴れるどころか、心の澱みはどんどんと重くベタつくようにわだかまっていくばかり。
その澱みが、秋夜の冷たさのように染み込んでいく。心にできた傷口がチクリと痛んだ気がして、水樹は知らず知らずのうちにため息をこぼしていた。
重く、白く、沈んでいく吐息と共に。重く澱んでしまった心の奥、その底の底へと意識が沈んでいく。
どこまで続くような気がしていたそれは、ひっそりと眠る何かに行き当たったことで終わった。あるいは、止まったと言うべきか。
その「何か」を前に、水樹の心は逡巡する。それは、思い出すには余りにも痛くて辛いものだったから。
しかし、水樹は結局それを開くことにした。「あの時」と変わらない自分を、直視しなければならないと思ったから。

――高校卒業の、前日のこと。
同級生の友達に誘われて、水樹は屋上へ行った。翌日で見納めになる高校の風景を、一緒に目に焼き付けよう――そんなことを、彼女は呑気に考えていた。
屋上で、友達と二人きりになるまでは。
いきなり、だった。
頬を引っ叩かれ、泣きながら呪詛の言葉を浴びせかけられた。
腫れた頬の熱さも感じられない、呆然としきった頭で理解できたのは。
自分が彼女を知らず知らずのうちに傷つけていたらしいこと。
存在そのものが、彼女を苦しめていたらしいこと。
そして、大切な友達をここまで追い込んでしまった自分が、どうしようもなく醜いということ。
やっと頬の熱さと痛みを感じ始めた頃には、水樹は一人屋上に取り残されていて。
あれから何年も経った今も、水樹はこうして一人で居る。
重く暗く澱みきった心で、すがるように天使を見上げた。救いを求めるように、細い腕を天使に伸ばす。
「ねえ……天使さん、私はどうしたらいいのかな……？」
そう、こぼしたその時――天使が、開かないはずの瞳を開いたような気がした。
瞬間、水樹を取り巻く景色が変わる。
秋の夜から、春の昼中へ。廃教会から、学校の屋上へ。
そして目の前には、あの日の同級生の顔。
――ではなく、彼女自身のそれがあった。
驚く頭の片隅で、水樹は理解する。今自分は、あの子の内側に居るのだと。
その証拠に、あの日の自分に向けられた呪詛の言葉はほとんど聞こえない。
その代わりに、同級生の――友人だったはずの人間の、苦しみ、悲しみ、嫉妬、怒り――数えきれないほどの、負の感情の濁流が流れ込んできた。
それは水樹の心の傷を静かに、しかし確実に押し広げていく。
その度に、胸の奥底が痛みに悲鳴をあげる。しかし、目を逸らすことも耳を塞ぐことも今の水樹にはできない。出来たとしても、何の意味もない。
受け止めるしか、そして見つめなおすしかないのだ。
そうしなければ、きっと何時までたっても変わらないままだから。

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