き、緊張してきた……とステージ袖でどきどき高鳴る胸を抑えているのは、十文字 若菜である。
（でも、せっかく衣装も用意したんだし、がんばらないとっ……！）

　彼女が身にまとっているのは、中国の漢民族の伝統衣装である漢服である。
　日本の着物に似ているようで異なるデザインのその民族衣装は、十文字のつややかな黒髪にもよく似合っている。
「それでは続いて、十文字若菜さんの登場でーす！」
　名前を呼ばれ、十文字はステージに向かう。
　バックに流れてるのは、二胡特有の悠然とした音色の中国音楽である。
　そのゆったりとしたテンポに合わせて十文字はゆっくりと舞った。
　しなやかな両手を伸ばし、ゆっくりと回る。もともと中国舞踊にとくに詳しいというわけでもなかったので、その動きはネットでの見よう見まねだ。
　くるりと回るたびに、漢服の裾がふわりと舞い広がる。最初こそ緊張していたが、ゆったりとしたリズムは十文字の心を落ち着かせ、今ではステージの観客の顔を眺める余裕すらあるほどだ。
　こちらを見る人、人、人――。
　そのただ中に、見知ったひとつの顔を見つけて十文字の心臓は小さく高鳴った。
（……っと、平常心、平常心……）
　片思いのその人の姿に揺り動きかけた心を必死に落ち着ける。が――
「若菜先輩、似合ってますよー！」
　その人、浅沼 柳司の思いがけない声援が飛び込んでくる。
　落ち着きかけてきた十文字の心は再び高く跳ね上がった。しかし、幸い曲も終わりにさしかかってきたところだ。どうにか気持ちを静めて踊りきると、十文字は深々とお礼をした。
「……ありがとうね、柳司くん」
　声に出さず、そうつぶやく。
　こうしてダンスアピールは無事に終了したが、本番はここからである。
　がらがらがらと運ばれてくる熱湯風呂。ご丁寧にその都度沸かしなおしているらしく、もしかしたらぬるくなってるかも――という十文字の淡い期待を裏切って、その浴槽からはもくもくと湯気が立ち上がっていた。
　……これが本当に熱いということは、これまでの挑戦者を見ていれば分かる。
　しかし他にアピールなど思いつかないし、なにより――前々から１度挑戦したいと思っていた熱湯風呂。よし、と気合を入れると十文字は着ている漢服を脱ぎ捨てた。
　おお、とどよめく観客席。漢服の下に着ていたのは水着であった。淑やかな漢服とがらりと雰囲気の違う、カジュアルながらも可愛らしいデザインだ。
「じゃあ……いきますっ」
　意を決して片足をお湯にどぼん。
　その時点で――相当熱かった。
（なにコレなにコレ熱い……！）
　しかし今まで、足を入れただけでリタイアした者はいない。
　さすがにここで退くわけにはいかないよね……と、目をぎゅっとつぶって更にもう片方の足をいれ、ゆっくりと腰を沈めていく。
「あっつい！　これ本当に熱いっ！」
　ゆでだこになっちゃいそう――と、早くもぼんやりした頭でそう思う。
　もう無理、のぼせる前に上がっちゃおうと浴槽のへりに手をかけたときだった。
「若菜せんぱーい！　ファイトですっ！」
　再び聞こえてきた浅沼の声。
　ぼんやりした頭でそちらを見ると、彼が手を振って応援してくれているのが見える。
（……そうよね、こんなとこで負けてちゃダメだよね）
　声援――それも、特別な人からの声援に、十文字は上がろうとする手を止める。
　相変わらずお湯はとんでもない熱さだったが、彼が応援してくれていると分かっただけでがんばろうという気になれた。
（もう少し、もう少し……だけ……）
　限界まで粘ったところで、もうさすがに無理、と勢いよく立ち上がる。
「熱かった……けど、ありがとうございましたっ！」
　氷で体を冷やしながら、十文字は深々と頭を下げる。
　相当の時間粘ってみせた彼女に、文句なしの拍手が沸き起こる。
　手を叩いてくれる観客の中に、改めて浅沼の姿を見つけて――
（そういえば、顔、赤くなってないかな……！）
　のぼせてすっかり火照った頬を、思わずぺたぺたと触ってしまう十文字であった。


　
　そして続いての出番は――
　会場に軽快なヒップホップダンスのリズムが流れる。
　暗転した舞台は色とりどりのスポットライトで照らし出される１人の青年。
　ぴしっと着こなす学ラン姿とヒップホップダンスのアンバランスさが、逆に様になっている。お祭り好きでにぎやかな彼らしい、陽気なパフォーマンスだ。
　寝子高では見慣れない学ラン姿に、司会はマイク越しに声を大にする。
「オールバックの学ラン青年！　彼は果たしてマタ工生？　はたまた中学生？」
　その実態は――
　
「ブドーでっす！」
　ビシッ！　とポーズを取って撫で付けた前髪をくしゃり。
　胸元のポケットから取り出した伊達眼鏡をかけたのは――志波 武道だった。
　ぱちんとウインクを飛ばすと、会場はわっと大盛り上がり。
「わああ、ブドーちゃんさすがなのだ！　カッコいいのだ！」
「志波会長、がんばってくださいませっ」
「ブドー生徒会長！　学ラン姿もきまってるぞ！」
　観客席からは、後木 真央と天満 七星、そして柊沢 北斗の声が響く。
「おや、あの学ラン姿は……志波か。ずいぶん化けたものだな。様になっている」
　声を張り上げこそしないが、しっかりと声援を送るのは楪 櫻だ。
　多くの友人たちの声援を受け、志波は満足そうに笑ってみせる。
「イイねぇイイねぇ、この空気！　最高だぜぃ！」
　ワイワイと楽しいことが大好きな志波。　
　その歓声のど真ん中にいる機会などそうそうあることではない。
　やっぱり出てよかった、とその歓声にうっとりする彼の背後に、例のアレが無慈悲に用意され始める。
　そう――熱湯風呂。
　一通り歓声を堪能した志波は、背後に迫り来るその熱気にゆっくりと振り返る。
　その表情には、おののきやためらいなどは微塵も無い。
　なぜなら――
「来たな……熱湯風呂！」
　一度でいいから熱湯風呂にチャレンジしてみたかったからだ！
　ばーん！　と効果音が出るような勢いで、志波は着ていた学ランを脱ぎ捨てる。黒のブーメランパンツのみというその堂々とした出で立ちに、最前列の女子からは悲鳴と黄色い声が同時にあがった。水泳部で鍛え上げられた見事な体つきは、筋肉好きの女子――といわず男子にとってはたまらないものである。
「マジでアツアツじゃんコレ！　いいねー、ワクワクしちゃう！」
　お笑い番組でよく見る熱湯風呂。
　まさか自分がこれに挑戦する日がくるとは――と、志波は風呂の縁に足をかける。
「あっつそーだなー、コレ……あっつそーだな、コレ！」
　急に入ったら火傷しちゃうよー。
　……などと言いながら、最初の威勢はどこへやら。なかなか入ろうとしない志波。
「いいか、押すなよ！　絶対に押すなよ！」
　チラチラと司会を見るその眼差しに、そこでようやく久良木はああ、と思い至ったような表情を浮かべる。
「いきなり入ったら火傷するからな！　絶対に押すな――」
「はい、どうぞっ」
　言いかける志波の背中を、えい、と笑顔で突き飛ばす久良木。
　風呂の縁でギリギリの体勢を取っていた志波。当然彼はそのままバランスを崩し、熱湯風呂へとドボンと転落する。
「ああああっ、アッチ！　アッチ！　やっぱりマジでアッチ！」
　熱湯風呂に挑戦する者として、この様式美は譲れないものだった。
　熱がりながらも、内心おいしいぜと思ってしまう志波。
　とはいえ――湯はマジで熱い。あれこれってお笑いとかならぬるめに設定されてるって聞くけど寝子高はガチなの？　ガチ熱湯なの！？　と湯船でもがきながらも志波は必死に耐えてみせる。
　今すぐ飛び出したい。が、これまでの挑戦者があまりにも粘りすぎた。
　ここで今さら自分が即ギブアップするには、という思いはどうしても拭えない。
　結局彼も時間ギリギリまで粘ってみせた。上がるなりズバァンと氷のタライにスライディングすると、荒く息を吐きながら湯だった肌を必死に冷やす。
「マジで真っ赤じゃんコレ！　こんなに真っ赤じゃまるでゆでブドーじゃナァァイ！」
　ＨＡＨＡＨＡＨＡＨＡ！　とまるで欧米人のような高笑いを響かせながら、志波はステージから去っていくのであった。