【お花見】桜の下で待ち合わせ｜リアクション

【お花見】桜の下で待ち合わせ

　星ヶ丘の自宅には帰っていない。
　あの家には誰もいない。父も母も、誰も居ないあの家は、まるで整然とした廃墟のよう。
　朝鳥さゆるが巨大なクローゼット代わりとしたあの家にはもう、あの日以来寄りついていない――あの鐘の音を聞いた日曜日以来、あの『現実』を見た朝以来、一度も。
　寄る辺ない身を寄せたのは、寝子島高校から一キロほど離れたワンルームマンションだった。現実ではない『現実』の世界で、最愛の人である男とありうべからざる日々を過ごした部屋。
　けれど、その部屋の主は居ない。あの日迷い込んだ『現実』は現実ではなかった。決して起こり得ぬ『現実』だった。
(藍人)
　部屋の主である男の名を呟く。
　片篠藍人は、もういない。
(違う)

「……違う」
　冷たい春の夜に零れ落ちた言葉の暗さに、さゆるは栗色の瞳を歪める。
　彼が隠れ家としていたあの部屋に、彼はもういない。
　幾度となく顔を合わせ憎み合うように互いの体に傷を刻み合ったのに、愛し合ったのに、彼はある日突然姿を消した。
　寝子島から離れたのか。この国から離れたのか。この世界から消えたのか。
　生死すら判然としない彼の行方を、さゆるは追わなかった。その代わり、彼ではない別の誰かに投げ出すが如く身を任せた。白い裸体を薄紅に染め、己が身を快楽に貶めた。
　それでも、あの『現実』の迷い込んだ日以来、垣間見た『現実』に縋るように彼の部屋に帰り蹲った。見知らぬ誰かと体を重ねることすらせず、彼の痕跡すら残らぬ彼の部屋で日々を過ごした。心身を抉る昏く深い穴をぼんやりと眺めるような日々の末、彼の部屋にいることさえ辛くなった。
　もがくように彼の部屋を抜け出し、行きずりの誰かの腕に再び身を投げ出した。快楽に溺れることで己を穢し傷つけることで、己の傷を隠そうとした。
(藍人)
　自傷行為に近い逍遥の日々からも逃れて力尽きるように座り込んだのは、彼の不在を思い知らされることが辛くて一度は離れた彼の部屋からほど近い公園。
　沈み込むような春の闇に占められた公園に、人気はない。
(また帰ってきてしまった)
　目を転ずれば灯のない彼の部屋が目に入ってしまう。それが分かっていて、深く俯く。行き倒れるように片隅のベンチに腰を落とす。
　投げ出した手にふわり、冷たい花びらが幾つも触れた。指先に触れる外灯に青白くさえ見える桜の花びらにも、けれどさゆるの心は動かない。
　思うのは、失われた最愛の人のことばかり。
　互いを傷つけあい、犯しあった日々のことばかり。そうすることでしか互いを愛せなかった。そうすることでしか、互いを求められなかった。
(……もし)
　降り積もる桜よりも白い指先を見下ろす。いつか、この指先で彼の背に爪を立てた。傷をつけ、傷を抉った。己のしるしを刻み込んだ。
(彼が戻ってきたのなら、……帰ってきてくれたなら)
　夢見るように、思う。
　熱を帯びた瞳で、明りの灯らぬ彼の部屋を見つめる。
(その時は)
　再び愛し合おう。互いを激しく傷つけ、その痛みで以て互いに互いを刻み付けよう。
(あたしには、それしか――)
　そんな愛し方しか、できない。
　冷え切った両の指先で顔を覆おうとして、吹き寄せた夜風に視線を奪われた。闇に濡れる黒髪を撫で、深く疲れ果てて倦んだ頬を撫でる風を追って見上げた瞳のその先には、夜空を隠す一面の桜。
　枝をしならせるほどに咲き乱れた花が風に揺らされ、やむことを知らぬ雨のように宙に舞う。
　春の闇に乱れ散る花を、さゆるはただ一心不乱に見つめ続ける。
　桜を見ている間は、何もかもを忘れられる気がした。
　何もかもを、忘れたかった。あの日見た『現実』の彼のように。