【1】
7歳の頃、遠足で始めて九夜山に登った日
山で迷子になり、心細く泣いていた僕はキジトラ模様の猫に出会った
その目は淡く澄んだ翡翠色に輝き、まるで宝石みたいに輝いていて、子供心ながら綺麗だと思った
僕はそんな彼にすがりたい一心で、ただ不安から逃れたくてそっと手を伸ばす。
そんな僕から何かを察したのか、彼は一瞬目を細めたかと思うと
僕の泣き顔を一瞥しせっせと、せっせと走り去っていく。
追いてかれてなるものかと、僕も慌てて立ち上がり彼の背中を追いかける
決して距離の縮まらない、けど追いていかれもしない鬼ごっこ
そうやって追いかけてるうちにだんだん、楽しくなってきて
気づけば僕は泣くことすら忘れて彼を必死で追いかけて。そして、気がつくと
僕は遠足の列から少し離れた登山道まで戻ってこれていた。
彼は僕の事を案内してくれたんだ。そのことに気づき、振り返った頃にはもう
ノラ猫は走り去った後だった
遠足から帰ったあと、先生から大目玉をくらい家路につき
学校からは既に電話を貰っていたらしく、父さんはくたくたになった僕の姿を見て大笑い
母はそんな旦那のズレた反応に呆れ果て、怒ることも忘れていた。
普通の家族とは多少異なる空気感、でも僕はそんな両親の夫婦漫才のようなやりとりが好きだった。
晩御飯を食べ、お風呂に入り8時に布団に入る
いつもなら目をつぶればぐっすり眠れたはずなのに、今日だけは中々寝付けなかった
今日出会ったあの猫の事が気になっていたからだ。
名前も知らない今日初めて会った恩人の一匹
・・また、彼に会ってみたいと思った。
動物と人で言葉は通じないけれど彼となら友達になれると思ったからだ
それから、お休みの日ににお父さんと一緒に九夜山に登るようになっていた。
そうこうしているうちに僕はこの場所が好きになっていったんだ。
【4】
夢を見た、ある野良猫とまだか弱い男の子の夢
何度も何度も脳内で美化し反芻し続けた彼女と彼の記憶
それは紛れもない現実でありながら
君はまだ、何もかも受け入れられずにいる。
幼かった男の子は、次の日動物病院に行くことができなかった
本当の事を知るには、知ろうとするには男の子はあまりにも幼く弱かったから
それから一週間が過ぎ彼が父親と一緒に動物病院に向かうと、そこにはノラはいなかった
そして、ノラがあの後どうなったのか先生は最後まで教えてはくれなかった。
目をこすりながら布団から起き、ふらふらしながら階段を下り洗面台で鏡を見る。
寝癖でぼさぼさの頭に目元には酷いくま。相変わらず酷い顔だ
冷たい水で顔を洗う、ノイズが少しずつ消えていく感覚
それと同時に大切なナニカがゆっくり、ゆっくりと水底へと沈んでいく
仕方ないんだ。時間が止まることのないように、何もかも変わらずにはいられない。
あれから僕にも色々あったし、誰だって子供のままではいられない
学生として過ごす日々は覚えることが沢山あり
彼女がどんな仕草を見せ、どんな顔を向けたのか。
大切な記憶だったはずなのに僕は少しずつ、少しずつ忘れていった
それがたまらなく嫌だった。彼のいない日々の記憶が堆積していくうちに
何もかもがなかった事になってしまいそうな気がして、そうなってしまう事が怖かった
だから僕は勉強が好きじゃなかった。大切な居場所だけは残してあげたかった
もちろん楽しい思い出も沢山できたし、大切にしたい繋がりも少しずつ増えていった
だからこそ、自分の手で守らなくちゃならない。後悔してからでは遅い
失ったものは絶対に手元のに戻りはしないのだから
意識の覚醒を実感しいつものペースで制服に着替える
ベストをハンガーから下ろし胸ポケットに手をいれる
そこには大切なお守りが入れてあった
「この一枚しかないからね、大事にしなくちゃ」
誰に言うわけでもなく、周りにきこえぬよう小さな声でそっと呟く
そして、そっと最初からあった場所にそれを戻しベストを羽織り
今となってはすっかり慣れた革靴の履き心地を両足で再確認し
そっと玄関のノブを回した。
僅かに開いたドアの隙間から朝らしからぬ日差しが飛び込んでくる
半歩だけ進み見上げると、視界いっぱいにオレンジ色の空が大きく広がっていた
「夕方か、寝過ごしちゃったみたいだねぇ。」
ーおしまいー
【3-2】
自転車を入口に止めて、カゴに積んであった懐中電灯をつけて
ゆっくり、ゆっくりと九夜食堂の方へと近づく
軒下が見える位置までくると毛布の上に猫の輪郭が見えてくる
正直、ホッとした。ノラは間違いなくそこにいたんだ。
駆け寄って初めて僕は彼の違和感に気づく。
ノラは横たわり目を閉じていた。ただ決して眠っていない事だけはすぐに分かった
お腹の辺りに何かで貼り付いた黒い羽が、ゆっくりゆっくりと上下に動く
子供の僕でも彼に一体何が起きたのか、そんな事は見てすぐに分かった。
懐中電灯を放り投げ、毛布ごとノラを抱きかかえ来た道を急いで戻る。
真っ暗で何も見えなかった。でも今の僕には関係なかった
色々なものが僕の中から溢れてきて、最初から何も見えてなかったからだ。
自転車のカゴにノラをそっと載せ九夜山の舗装路を猛スピードで駆け下りる
規則的に刻まれるノラの呼吸は少しずつ間隔が開いていった
旧市街の動物病院は年末休暇でシャッターが降りてしまっていた
僕は急いで自転車を降り、カゴのノラを持ち上げる。
その体は思っていたよりも重たくて、それでも落とさないよう必死に抱きかかえた。
必死にシャッターを叩くと、奥の窓に明かりが灯り先生が裏の扉から出てきてくれた。
先生は僕を家の中に招き入れ、僕は先生にノラを預けた
「大丈夫、まだ生きてるよ。よくがんばったね」
先生はそう一言呟くとノラと一緒に奥の方へと消えていった
しばらくして、お父さんが軽トラで病院の前まで迎えに来てくれた。
先生が家に電話をしてくれたらしい。
お父さんは僕の自転車を荷台に積み「助手席、乗るかい?」と訪ねた。
僕が首を振るとお父さんは一言「そっか」と微笑みながら答え
僕の体も荷台に持ち上げてくれた。
とたんに僕はこらえられなくなり、家に着くまでの間
荷台で体育座りをし、ずっと泣いていた。
悲しくはなかった。先生はノラは助かると言ってくれたから
それでも何故か涙が止まらなかった。
家に帰るとお母さんは片手鍋にミルクを注ぎ温めながら待っててくれていた。
僕は母さんが作ってくれたホットミルクを一杯飲み、二階へ上がり布団に入る
その日だけは素直になれなくて、ありがとうの一言が言えなかった。
そしていつまでたっても眠ることができなかった
あともう少し、早く来ることができたなら
その場で治すことができたなら
強かったなら
僕はノラを守れたんだろうか
そんな事を考えてるうちに僕は眠りにつき
そして、夢を見た
【3ー1】
あの日を境に、僕はノラと展望台で夕日を見るのが日課になった
彼は決して僕に懐こうとしなかったし、近づくとすぐに逃げてしまう
僕はそんな彼と友達になりたくて、家の余りものの毛布をくすねて
九夜食堂の軒下に小さな寝床を作った。
次の日、やってくると彼は僕が持ってきた毛布の上で目を閉じていて
ただそれだけの事なのに、少しだけ認めてくれたように感じて
たまらなく嬉しかったんだ。
12月31日、終業式を迎え冬休みが始まり数日経った大晦日。
実家の寝具店は在庫処分で大忙し、子供だった僕も日が暮れるまで
忙しくお店のお手伝いをしていた。お手伝いが終わる頃には夕陽はほとんど沈んでて
見上げると空は真っ黒で、なんだか嫌な予感がした。
言葉で約束した訳じゃない。けど今日はノラと会えずじまい
また会えなくなってしまうような気がして、不安な気持ちでいっぱいになった
気づくと僕は自転車を漕いで九夜山に向かっていた
お父さんには学校に忘れ物を取りに行くとだけ伝えた
きっと、お父さんは僕が嘘をついてることなんて気づいていたと思う
それでもただ一言「気をつけなよ」と言って頭を撫で送り出してくれた
夜の九夜山に来るのは初めて自転車のライトがなければ3歩先も見えないぐらい暗かった
まるでこの世界に僕だけ一人取り残されたみたいだった。
怖い気持ちを振り払いたくて僕は必死にペダルを漕いだ。
展望台には思ってたよりもはやく着くことができた。
音は何も聞こえなかった。
【2-2】
彼はそんな僕の思惑を察したのか、僕の顔をじろりと睨んだかと思うと
駅のホームを早足で抜け出し、重い体を揺らしながら山道を駆け上り始めた。
今見失ってしまってはもう二度と会えない、何故だかそんな気がした僕は
必死で彼を追いかける。
彼はあの日から少しだけ歳をとった。だからあの日より少しだけ遅くなった気がする
僕もあの日より1歳年をとった、おかげで少しだけ足が速くなった
それでも僕は彼との距離を少しも縮められてはいなかった。
彼は僕よりもいつもずっと先を行く、それがたまらなく悔しくて
無我夢中で九夜山を駆け上がる。
肩を上下させながら頂上展望台にたどり着いた時、
もうとっくに雨は止んでいて、オレンジ色の太陽が少しずつ寝子島の街に溶け込む
幻想的な景色が僕の目に飛び込んできていた。
「僕にこれを見せたかったわけ?」
彼はにゃあと一回鳴いたきり陽が完全に沈むまで
その景色から目を放さなかった。
それが目の前にいるノラ猫の、僕の問いかけに対する答えのように思えた。
そして僕はそんな彼の姿を、もう二度と忘れようとしないように
ずっと【ノラ】の姿を眺めていた。
【2ー1】
九夜山に通うようになってから半年近くたった頃
12月、紅い絨毯が敷かれる九夜山の登山道を今日も僕は歩いていた。
唯一変わった事といえば、お父さんの付き添いが無くなった事ぐらいだろうか。
一般家庭では小学1年生を一人で登山させはしないだろう、だが父さんはそんな僕の願いを
登山道が見えない場所には立ち入らない事を条件に許してくれた。
何度も何度も足を運ぶうちに体に道は染み付いていた。地図を片手に
展望台までの一本道を往復する日々、まるで冒険家になったようだった。
そうして疲れた体を草花のベッドに横たわり一眠り
毎日がただただ楽しかった。それと同時にあの日の記憶は少しずつ、薄らいでいった。
12月20日。その日天気予報はまんまと嘘をつき、2時をまわったあたりから雨が降り始めた
慌てて来た道を逆戻りして、展望台前のロープウェイ駅で雨宿り
本降りになる前でよかったなぁ、そんな事を思いながら壁にもたれかかり
規則的に屋根を叩く雨音を聞きながら、空が茜色に変わるのをただひたすら待つ
そんな気持ちとは裏腹に雨足はより強く、しまいには雷まで鳴り出した。
「今日はもう駄目かな」しびれを切らし立ち上がり券売機の方へ振り返る
視界の先、駅の改札のむこう、ホームに彼は佇んでいた。
彼の体はあの日の記憶より一回り大きくなっていて
あの日見とれてしまった瞳の緑はより深く、より輝きを増していた。
時計の秒針はめまぐるしく逆行していく、忘れかけてた記憶が色彩を取り戻していくなか
ただ僕は眺めていた。ひたすらに
それだけであの日僕は満足だったんだ。