*prologue
甘い飴玉を口に含んで瞼を閉じる。
目の前に広がった真っ暗な闇。
真っ暗闇に沈んで。沈んで。
落ちて。落ちて。何処までも堕ちて。
気が付いたら、違う世界。
元いた世界と少し似ていて
だけど全然、違う世界。
そもそも、元いた世界って何処だっけ。
どんな世界だったっけ。
どうやって此処に、来たんだっけ。
ここは何処なの。私はだあれ。
私って一体、誰だっけ。
私の名前、なんだっけ。
わからないけど、別にいい。
だってこの世界では
何もわからなくたって、きっとなんにも困らない。
だけどやっぱり、名前は欲しいな。
何がいいかな。何にしよう。
そうだ、アリス。アリスにしよう。
私はアリス。私はアリス。
口に出して、繰り返して、うんうんと頷いてみる。
そういえば、さっきから手に持っている
これは一体なんだろう。
鈍色に光る鋭いナイフと
青色の水が入った三日月の瓶。
なんだっけ。なんだっけ。
なんにもわからないけれど
私が手に持っているから
これはきっと、私のもの。
私はアリス。私はアリス。
空から降り注ぐ太陽の光がちょっと眩しい。
ずっと此処に座っていたら
私は焼けて死んじゃうのかな?
私はアリス。迷子のアリス。
お休みなさい。お休みなさい。
眠りから覚めて瞼を開ける。
夢は見たような、見なかったような。
どちらにしても大差ない。
夢の中のものなんて、現実にはなにも持ち帰れない。
幸福も不幸も絶望も希望も愛着すらも全て置き去り。
さようなら。さようなら。夢の世界。
おはよう。久しぶり。現実の世界。
ベッド変わりのソファーから
身を起こしてきちんと座る。
足の痛みはなくなったけど
今度は身体があちこち痛い。
悪いのはソファー?
それとも。それとも。
古いものだと知りながら。傷んだものだと知りながら。
それでもなんだか愛しくて、寝場所にこの子を選んだ私?
久しぶりのこの部屋はさっきと変わらず
薄暗いままでしんと静かで電気は無駄遣いされている。
このお部屋のご主人様はいつお帰りになるのかしら。
お帰りなさいと、言いたいのに。
ここは居心地が良いけれど
私の部屋では決してないから
そろそろおいとましなくては。
箒が逆さに立つ前に。
痛まない足でしゃんと立ち
名残惜しさを引きずりながら
小さな世界からの出口を目指す。
扉を開けるその前に、世界に向き直ってお辞儀を一つ。
一時の休息をありがとう。
これでまた私は歩けるわ。
また迷子を続けられるわ。
私はアリス。迷子のアリス。
私はアリス。私はアリス。
私は面白いものが好き。
もっと面白いもの、他にないかな。
面白いものも大切だけど
さっきから足がズキズキ痛い。
少し休ませて貰いましょうか。
座り心地が悪そうなソファーに座って一休み。
座り心地はやっぱり良くない。
寝転んでみると背中が痛んだ。
何かを下敷きにしているみたい。
身を起こすのが面倒で背の後ろに右手を入れて
手探りで取り出す 怠惰で不精。
背の下から現れたのはカラフルな色した正六面体。
ルービックキューブという名のオモチャ。
私はアリス。お姫様じゃない。
だけどこんなのを背に敷いてたら お姫様でなくても痛い。
ルービックキューブはえんどう豆より 大きくって硬いから
これは全然不思議じゃないわ。
ルービックキューブをくるくる回す。
色を揃えようと試みる。
中々揃わない。かみ合わない。
簡単そうで難しい。
色が沢山なければいいのに。
全部同じなら簡単なのに。
全部全部同じ色なら苦労したりはしないのに。
イライラして悲しくてもう嫌だって投げ出して
捨てたくなったりもしないのに。
だけどそれじゃあ意味がない。
面白くないし楽しくない。
面倒だから、苦労するから揃った時に嬉しいの。
練習すれば上手くなる?
ちゃんと出来るようになるかしら。
でもでも、今日は飽きたから
ちょっぴり疲れてしまっているから
また明日、そう。また今度。
明日がいつ来るか、わからないけど。
今度がいつか、わからないけど。
少し眠ってしまおうか。
少しだけ。そう、少しだけ。
いつだったかもこの部屋で眠ったことがあるような。
そんなことってあるはずない。
私はここへはじめてきたの。
そうでしょう、アリス?
私はアリス。迷子のアリス。
お休みなさい。お休みなさい。
下った先にあるのは、そう。
不器用で優しい彼の巣が…。
彼?彼って、だれだっけ。
誰だったっけ。忘れちゃったわ。
今はそんなことよりも
私が階段を下りていて、底へもうすぐ辿り着く。
そのことの方が重要ね。
いち、にの、さんで。ほら、ついた。
一階から降りてきたからここは地面の下。地下廊下。
廊下には扉が並んでる。
扉はどこに繋がっている?
一番目の扉をノックする。
こんこんこん。誰かいますか。いませんか。
返事なんて待たないで扉を開いて中へと入る。
いつもはノックしないのよ。
今日の私はノックをしたから
今日の私は普段より
ちょっぴりだけいい子なの。
扉の中は薄暗い部屋。
薄暗くて殺風景な部屋。
誰かいるような気がしたけれど
誰もいなくてとっても静か。
あるのは間接照明と
パソコンの乗ったスチールデスク。
座り心地が悪そうなソファー。
パソコンの電源がついたまま。
誰もいないのについたまま。
電気の無駄遣いは良くないわ。
資源は有限。資源は有限。
でももしかしたら無限かも。
空想が無限であるように。
パソコンの中には何がある?
マウスを手に取り矢印を動かす。
電子箱の世界を気ままに探索。
適当にファイルを覗いてみると…。
あらあらまあまあ。これはまあ。
なんてショッキングピンクなの。
最低。最悪。見なきゃよかった。
後悔しても手遅れなのよ。
一度覗いてしまったら、覗く前には戻れない。
忘れてしまえば別だけど。
ネズミをぽいと手放して
熱くなった頬を押さえる。
今度はあそこの隅にある
袋の中身を覗きましょ。
後悔するかもしれないけれど
中身がどうしても気になるの。
がさがさごそごそ。
袋の中身は色んな衣装。
婦警服にナース服にチャイナ服。
どれもこれも作りがチープ。
スカート丈は短くて、スリットが深くて、なんて破廉恥。
このお部屋の御主人様はこういうのが趣味なのかしら。
着るの?着せるの?着せられるの?
どれにしても趣味が悪い。
私はアリス。私はアリス。
私は面白いものが好き。
もっと面白いもの、他にないかな。
どうやってここに、来たんだっけ。
どんな道を、通ったんだっけ。
どこに行こうと、してたんだっけ。
覚えてないけど、別にいい。
だってこの世界では
なんにも覚えてなくたって、きっとなんにも困らない。
目の前にあるビルを見つめる。
大きくってボロボロのビル。
見上げてみると、とても高い。
上から落ちてしまったら
きっと潰れたカエルになっちゃう。
ビルはなんだかさみしそう。
お腹を空かせているみたい。
昔はお腹いっぱいだったの?
今はペコペコなのかしら。
何か食べたくて仕方が無いから
こうして口を開けてるの?
私でいいなら食べてもいいよ。
代わりにお腹の中身を見せてね。
ビルのお腹の中はひんやり。
涼しくって心地いい。
ビルの中は薄暗い。
眩しくないから心地いい。
私の歩く足音が大きく大きく響くのは
ビルがお腹を空かせているから?
私は美味しい?
噛み砕かずに飲み込んだから
味なんて少しも、わからないかな。
ビルのお腹を見て回るうち
下へと続く階段をみつけた。
下はもっと涼しいかしら。
もっと心地がいいかしら。
ひんやりした壁に手をついて、足を交互に動かして
底へ底へと私は下る。
下った先に何があるかを
知ってるような、知らないような。
下った先にあるものは
きっと悪いものじゃない。
だって何故ならこんなにも、私の胸は暖かい。
下った先にあるのは、そう。
不器用で優しい彼の巣が…。
彼?彼って、だれだっけ。
こんなに沢山の人、さっきまで此処にいたかしら。
いた気もするし、いなかった気もする。
どっちだっけ。どっちでもいいや。
さっきまでいても、いなくても
きっと同じことだから。
だってほら、余所見しながら歩いているせいで
うっかりぶつかってしまっても
この人達は何もなかったみたいに
また真っ直ぐに歩いてく。
歩みが遅い私の事を
後ろから突き飛ばしても
私に一瞥もくれることなく
足を止めずに歩いてく。
なんにも気にしていないみたい。
少しも興味がないみたい。
だから私も気にしなくていい。
少しも興味を持たなくていい。
数え切れないぐらいの人に
数え切れないぐらいの回数
ぶつかったり、突き飛ばされたり。
だけど誰も気にしない。
だから私も気にしない。
きょろきょろ余所見をしながらゆっくり
亀の歩みで前へと進む。
本当に前に進んでいるの?
こっちは本当に前かしら。
わからないけど、別にいい。
ここじゃない何処かへいけるなら
後ろ向きでも、別にいい。
足を何度も動かす内に、人の波から遠ざかり
気付けば私は一人きり、ビルの前へと立っていた。
どうやってここに、来たんだっけ。
どんな道を、通ったんだっけ。
どこに行こうと、してたんだっけ。
覚えてないけど、別にいい。
だってこの世界では
なんにも覚えてなくたって、きっとなんにも困らない。
ずっと此処に座っていたら
私は焼けて死んじゃうのかな?
そう考えたら寒気がして
体が小さく震え出した。
なんだか怖がっているみたい。
アリス、アリス。
貴女は死んでしまうのが怖いの?
私(アリス)に聞いてみたけれど
そうわけじゃないみたいだった。
死んでしまうのは怖くない。
でも、眩しい光に焼かれるのは怖い。
長袖の服を着ているのは、光から身を守る為?
眩しい光が怖いなら、此処に座っていちゃ駄目ね。
ナイフと瓶を洋服のポケットにしまって
硬い地面の上に立ち上がる。
探しに行こう。探しに行こう。
眩しい光が届かない場所。
その場所は何処にあるのかな。
歩き続ければ、着くのかな。
周りをきょろきょろ見渡しながら
一歩一歩前へと進む。
喫茶店に洋服屋さん。
雑貨屋さんにゲームセンター。
色んなお店が目に映る。
沢山の人も目に映る。
人、人、人。人の波。
数え切れないぐらいの沢山の人が
私が歩いているのと同じ道を
前をまっすぐ見て歩いてる。
こんなに沢山の人、さっきまで此処にいたかしら。
いた気もするし、いなかった気もする。
どっちだっけ。どっちでもいいや。
さっきまでいても、いなくても
きっと同じことだから。