*prologue
甘い飴玉を口に含んで瞼を閉じる。
目の前に広がった真っ暗な闇。
真っ暗闇に沈んで。沈んで。
落ちて。落ちて。何処までも堕ちて。
気が付いたら、違う世界。
元いた世界と少し似ていて
だけど全然、違う世界。
そもそも、元いた世界って何処だっけ。
どんな世界だったっけ。
どうやって此処に、来たんだっけ。
ここは何処なの。私はだあれ。
私って一体、誰だっけ。
私の名前、なんだっけ。
わからないけど、別にいい。
だってこの世界では
何もわからなくたって、きっとなんにも困らない。
だけどやっぱり、名前は欲しいな。
何がいいかな。何にしよう。
そうだ、アリス。アリスにしよう。
私はアリス。私はアリス。
口に出して、繰り返して、うんうんと頷いてみる。
そういえば、さっきから手に持っている
これは一体なんだろう。
鈍色に光る鋭いナイフと
青色の水が入った三日月の瓶。
なんだっけ。なんだっけ。
なんにもわからないけれど
私が手に持っているから
これはきっと、私のもの。
私はアリス。私はアリス。
空から降り注ぐ太陽の光がちょっと眩しい。
ずっと此処に座っていたら
私は焼けて死んじゃうのかな?
こんなに沢山の人、さっきまで此処にいたかしら。
いた気もするし、いなかった気もする。
どっちだっけ。どっちでもいいや。
さっきまでいても、いなくても
きっと同じことだから。
だってほら、余所見しながら歩いているせいで
うっかりぶつかってしまっても
この人達は何もなかったみたいに
また真っ直ぐに歩いてく。
歩みが遅い私の事を
後ろから突き飛ばしても
私に一瞥もくれることなく
足を止めずに歩いてく。
なんにも気にしていないみたい。
少しも興味がないみたい。
だから私も気にしなくていい。
少しも興味を持たなくていい。
数え切れないぐらいの人に
数え切れないぐらいの回数
ぶつかったり、突き飛ばされたり。
だけど誰も気にしない。
だから私も気にしない。
きょろきょろ余所見をしながらゆっくり
亀の歩みで前へと進む。
本当に前に進んでいるの?
こっちは本当に前かしら。
わからないけど、別にいい。
ここじゃない何処かへいけるなら
後ろ向きでも、別にいい。
足を何度も動かす内に、人の波から遠ざかり
気付けば私は一人きり、ビルの前へと立っていた。
どうやってここに、来たんだっけ。
どんな道を、通ったんだっけ。
どこに行こうと、してたんだっけ。
覚えてないけど、別にいい。
だってこの世界では
なんにも覚えてなくたって、きっとなんにも困らない。