「……だめだだめだ、もっと腰を入れて身体全身を使って、拳を打ち込むんだ。分かるか？　地面をしっかり足をつけて腰を使うんだぞ？」

　笑いながら俺は言った。なぜ笑っているのか、どうして笑えるのかは自分でも分からない。
　殴られて笑うやつがいればそれを人はマゾヒストであると決め付けたがる傾向があるが、俺はそうではない。もちろんジーザスでもない。
　サディストであるマゾヒストであるという分類は、精神学者の御高説に基づく精神分析を受けてからの方が良いだろう。

　いや、とにかくこれは、俺の話だ。精神学者の話じゃない。

　昔にさかのぼれば、戦場で顔が引きつり意識せずとも笑顔になっていることもあるし、過緊張のせいで下らないことで笑うことだってある。尻に銃弾が当たった時は耐えがたい激痛に歯を食いしばりながら下品な文句を叫びまくったし、とある馬鹿野郎をぶん殴った時に指が折れた時も鈍痛に耐えながら『骨のある野郎だった』とジョークを言った。
　では今はどうなのかと言えば、狼が獲物を前に笑みを浮かべている状態であって、つまるところ前者のいずれにも該当しない。

「お前、そんなパンチじゃ、男を本格的にぶちのめすことなんてできないんだ。ほら、見本を見せてやるから、かかってこい」

　かかってこい、というジェスチャーは万国共通だ。

　両手を広げて腕になにかを抱えるような動作を繰り返し、わざとらしく腰を曲げて数歩後ろに下がればいい。
　そしてそのジェスチャーに対する答えは馬鹿限定で万国共通。――つまるところ、考えなしに俺を殴りにくる。
　殴るという攻撃方法は単純明快ではあるが、その方法は細分化されており、殴り方にもいくつか種類と系統が存在するが、この男は無学我流だ。
　腕を振り回せば遠心力によって力が増すと思い込んでいる。物理的にはその通りだ。物理教授も首を縦に振るかもしれない。もしくは効率について疑問を呈するかもしれない。
　だが、喧嘩じゃそうはいかない。
　男の脇腹ががら空きになっている。さらに言えば踏込みも浅い。遠心力に頼っているから拳に身体が振り回される。身体に筋肉がついていない。
　まず俺は、右腕で男の右フックだかよくわからないパンチを防ぎ、次にジャブを相手の鼻っ面に叩きこんだ。男の短い悲鳴と、左拳に軟骨の固い感触が残る。
　仕上げに、鼻っ面を押さえて呻く男の髪の毛を左手で掴みあげ、右手で相手の顔を思う存分ぶちのめす。ワンツースリーフォー、その後なんとかかんとか。
　相手の意識が途切れそうになったところで殴るのをやめ、右足を軸にして義足の左足で思い切り蹴り飛ばす。そう、まるでサンドバックを地平線まで蹴飛ばそうとするみたいにだ。
　それで終わりだ。大しておもしろくもない。正直、つまらない。まあ、たしかに一発殴られて義眼はなくなったが――俺の記憶にはなにもない。これはノーカウントだ。

「賭け金は勝者のみに支払われる……たったこれだけのこの世の基本原理が、その頭の中につまってなかったのか？　学校で、家で、両親に教わらなかったのか？」

　濡れたコンクリートにつっぷしたままの男に英語で罵声を浴びせるが、もちろん返答はない。
　それはそうだろう。あの男が英語を理解できたかどうかは別として、あのひょろひょろとした体つきであれだけぶちのめされたら、しばらく意識は成層圏の辺りを彷徨っている。
　目を覚ますのは自分の身体が冷え切って死にかける瞬間か、犬の小便を頭にひっかけられている最中のどちらかだ。どちらにしても、酷く気分の悪い目覚めになることは間違いない。この男がもしも、奇跡的に、あの男に殺されなくて良かったと神や両親に生きている事に感謝するような頭と思考回路があれば、その目覚めは男の人生の中で最高の目覚めになるだろう。
　

　あたりを見回せば、男の他に人影はなかった。ぽつんと街灯がいくつかあるだけで、街の喧騒が夜空を辿って聞こえる程度だ。こんなところで酔っぱらいながらふらふら歩いていたら、変な奴もやってくるだろうと思ったが、身の程知らずが一人出てきただけだ。俺の想像していたのは複数人だったはずなのだが。
　たしかに一昔前は殴り合いも楽しいものだと最初は思っていた。地球の裏側で死にかけ、妻子には逃げられ、信頼していた唯一無二の男は俺を助けて死に、リハビリを終え拠り所だった軍隊を辞めたあと、義賊ぶって悪党どもをぶちのめすのは楽しかった。軍人であることを盾にすることはできず、頭を冷やせと独房に入れられたこともあった。冷え切っていたからこそ殴り合いをしているのだとは言えなかった。
　だが次第に、自分が求めていたものは殴り合いでは得られないことを知り、行き詰った。やはり戦場しかないのかと思い、除隊後に海軍時代のツテで警備会社の試験を受けてみたが、義足はともかくとして隻眼であるということはかなりのマイナス点になり、結局弾かれていた。射撃の腕がそのままであっても、射撃以外の要素が衰え、失われていたのだ。
　口の中に血が溜まる。気絶している男に向って唾を吐き捨て、溜息を吐く。久し振りにやってみても、殴り合いじゃ悪夢がなくなる程度しか効果はない。　
　順調だったんだと弱音が漏れ、後悔が湧きあがる。あの日あの時、爆弾で車ごと吹き飛ばされ、銃弾で蜂の巣にされる瞬間まで、俺の人生は順調だったはずなのだと、悔いてもどうしようもないことを思い出す。すべてを失ってから、失ったものの大切さを知った男の末路はこんなものかと冷めた心は言うが、たかが三十年生きただけで人生を諦めるのはどうなのだと、まだ精気を失っていない心の一部が叫ぶ。

「……疲れたな。帰るか、家に」

　本当の家ではないがと胸中呟く。
　本当の家も本当の家族も失った。
　これは長い休暇なんだと、俺は言う。
　長い休暇だ。場合によってはとてもとても、長くなる休暇だ。

　それでも休暇はいつかは終わる。
　現実に立ち向かい、タフに生きる戦いが始まる。
　俺はふと、昔の職場のモットーを思い出す。

　Never Quit.　　

　困難を乗り越えれば、いつか必ず、休暇は終わる。
　休暇だ。長い長い、傷を癒すための休暇。それが終わるまでは、無駄に考えることなく、好きに生きよう。