暴力への衝動がヒトの精神の基盤である、という仮説がある。古臭い仮説で、結局なにも証明できず仮説の域を出なかったものだ。
もう六十年も前の古くて陳腐な仮説ではあるが、学術的にはどうであれ、その仮説にどこか納得してしまう自分がいた。昔の職業柄という意味ではない。昔の職は好きで暴力を振るっていたわけではないし、そもそも給料と栄誉がなければやる気にはなれなかった。誰が好き好んで暴力への衝動を満たすために身心を擦り減らして、アラスカまで行って寒中水泳やらなにやらするものか。
なぜそんなインテリ染みたことを思ったかと言えば、極東の島国で安らかに暮らすと言い聞かせた自分が、今こうして社会の屑野郎と殴り合っている自分がいるという現実に対処できそうにないからだ。カリフォルニアやヴァージニアで見るような生きの良い屑野郎ではなく、見栄と威圧でなんとか生きているような奴だ。
そもそもどうして殴り合いになったのかすらよく覚えていなかった。防波堤で釣りを楽しんだ後に酒場で酒を飲み、店を出てぶらついていたのは記憶にあるが、その先はぼんやりと靄がかかっている。釣り道具はレンタルだったから問題ない。問題と言えば、一匹も魚が釣れなかったことくらいだ。
酒に溺れている間に食らった男のパンチは酷いものだった。左頬に右のフックを受け、嵌めていた義眼がどこかに吹き飛んだが、苦痛と言うよりはただの痛みでしかなく、俺は思わず嘲笑を浮かべていた。タフガイを相手にしようとしてるっていうのに、この野郎は軟体動物がやるような弱々しいパンチしかだせないのだから当然だ。
記憶はそこから始まっている。男がまず俺に右のフックを直撃させ、嘲笑を浮かべ、そして男が日本語か何語かも分からない言葉を唾と一緒に吐き散らすところからだ。
さて、どうなっちまったんだと俺は笑った。口の中が切れてヒリヒリと痛み、舌の上で血が踊り錆びた鉄の味がする。砂がないだけマシだ。中東の砂は傷に入ると後々厄介になった。
頭を左右に振って自分がどれくらい酔っているのかを確認し、俺は真っ赤な唾を吐き捨てる。そして残った右目で俺を殴った馬鹿野郎を見た。針金のように細く、女のような男がそこにいる。日本人の黒髪を染料で台無しにし、態度だけがでかいただのでくの坊だ。おそらく、力もない。
あたりを見回せば、男の他に人影はなかった。ぽつんと街灯がいくつかあるだけで、街の喧騒が夜空を辿って聞こえる程度だ。こんなところで酔っぱらいながらふらふら歩いていたら、変な奴もやってくるだろうと思ったが、身の程知らずが一人出てきただけだ。俺の想像していたのは複数人だったはずなのだが。
たしかに一昔前は殴り合いも楽しいものだと最初は思っていた。地球の裏側で死にかけ、妻子には逃げられ、信頼していた唯一無二の男は俺を助けて死に、リハビリを終え拠り所だった軍隊を辞めたあと、義賊ぶって悪党どもをぶちのめすのは楽しかった。軍人であることを盾にすることはできず、頭を冷やせと独房に入れられたこともあった。冷え切っていたからこそ殴り合いをしているのだとは言えなかった。
だが次第に、自分が求めていたものは殴り合いでは得られないことを知り、行き詰った。やはり戦場しかないのかと思い、除隊後に海軍時代のツテで警備会社の試験を受けてみたが、義足はともかくとして隻眼であるということはかなりのマイナス点になり、結局弾かれていた。射撃の腕がそのままであっても、射撃以外の要素が衰え、失われていたのだ。
口の中に血が溜まる。気絶している男に向って唾を吐き捨て、溜息を吐く。久し振りにやってみても、殴り合いじゃ悪夢がなくなる程度しか効果はない。
順調だったんだと弱音が漏れ、後悔が湧きあがる。あの日あの時、爆弾で車ごと吹き飛ばされ、銃弾で蜂の巣にされる瞬間まで、俺の人生は順調だったはずなのだと、悔いてもどうしようもないことを思い出す。すべてを失ってから、失ったものの大切さを知った男の末路はこんなものかと冷めた心は言うが、たかが三十年生きただけで人生を諦めるのはどうなのだと、まだ精気を失っていない心の一部が叫ぶ。
「……疲れたな。帰るか、家に」
本当の家ではないがと胸中呟く。
本当の家も本当の家族も失った。
これは長い休暇なんだと、俺は言う。
長い休暇だ。場合によってはとてもとても、長くなる休暇だ。
それでも休暇はいつかは終わる。
現実に立ち向かい、タフに生きる戦いが始まる。
俺はふと、昔の職場のモットーを思い出す。
Never Quit.
困難を乗り越えれば、いつか必ず、休暇は終わる。
休暇だ。長い長い、傷を癒すための休暇。それが終わるまでは、無駄に考えることなく、好きに生きよう。