夜のしじまを引き裂く慟哭、暗いみなもを揺する警告。
そんなアイロニカルなハルモニア。
「オフィーリアの花装だな」
「えっ?」
ポツリと呟けば、並んで歩く洋美が小動物めいてのんびりした仕草で小首を傾げる。
そんな彼女の今日のファッションは襟ぐりの弛んだもっさりセーター、動きやすいだけがとりえの色落ちしたジーンズ。素材は悪くないのに化粧もろくにしてないせいで、高校生でも通じる童顔が余計に幼く見える。
頭の横でふたつに結ったおさげを揺らし、くるくるよく動く目に疑問符を浮かべ、貧弱な猫背でだるそうに歩く劉を見る。
「誰ですその外人さん。まさか劉さんのカノジョ……」
「ちげーよ!オフィーリアも知らねーのかよ、ハムレットの婚約者だよ、シェイクスピアの」
「ああ、そういえば学校の授業で聞いたことあるような……有名な戯曲ですよね。でもよく知らなくて。どんな話でしたっけ」
ほにゃりと気の抜けた笑顔を浮かべる。
おっとり間延びした口調とこの笑顔にいつも毒気を抜かれてしまう自分にイラつき、胸ポケットの煙草をまさぐる。
「復讐の話。オフィーリアは主人公ハムレットの婚約者。フラれてとち狂って挙句にゃ入水自殺する悲劇のヒロインだ」
「可哀想ですね……」
所々端折った雑な説明が琴線に触れたのか、しんみりとひとりごちる。
虚構上の人物にそうまで同情できるなんてニブく見えて存外感受性が鋭いのか底ぬけのお人よしか、おそらく後者だろうと自分へのおせっかいの前科を数え上げ結論づける。
花嫁になれなかったオフィーリアの悲劇に俯きつつ思い馳せていた洋美が、はっと我に返る。
「でも何で突然」
「別に。さっきのアレが似てたんだよ、戯曲の光景にさ」
セイレーンの事件後、岬に花を手向けた帰り道。
行方不明女性の骸が打ち上げられた岩場には、彼ら以外にも多くの人影があった。
その多くが今回のセイレーン騒動に不可抗力でまきこまれた者たちで、彼ら―否、割合から言えば彼女らか―は、挙式直前に婚約者に崖から突き落とされた女性を悼み、各々花を捧げて静かに冥福を祈っていた。
花束が寄せては返す波に洗われ、ちぎれた花びらが緩慢にみなもを揺蕩うさまはひどく幻想的で。
潮流にもてあそばれ浅瀬に吹き溜まる花びらは、人魚の泡にも見えた。
そういえば、幻聴だろうか。
夢見心地の洋美の手を引っ張り岬から去り際、セイレーンの唄の一節を聴いた気がした。
まさか。
波長の合った女性にしか聞こえない特殊な歌が、たとえ潮騒に紛れた一瞬といえど、男の自分に届くはずがない。
そう現実的に否定してから、かろうじてありえそうな可能性をいくつかこじつけてみる。
あの場の異様な空気に感染して?洋美の精神に同調して?
何より一番ありえそうなのは……
「俺が女々しいってことか?」
事実はどうあれ、ただの空耳で片付けておくに越した事はない。
胎内回帰にたとえるには6月の海は寒すぎる。
無我夢中で駆けこみ手を伸ばした瞬間、理性の光すら射さぬ記憶の深海に沈みこんだもう一人の自分、姉の身代わりに静麗と名付けられた幼い「少女」がほんの一瞬薄目を開けて、みなもを見上げる気配がした。
かそけきひかりを乞うように、くるおしく焦がれるように。
「けど、もう聴こえねえな」
新たな煙草に火を点けて戯れに耳を澄ますも、風に乗って聞こえてくるのは遠い潮騒と、目を瞑っていても気配を感じられる距離にまできた洋美の声だけ。
セイレーンに捧ぐハルモニアの祈り。
今度こそ安らかであれと。
劉の知る鹿嶋洋美とはそういう人間だ。彼女は善意でできている。
天敵とは露知らず、雫光る糸と勘違いして蜘蛛の巣に絡め取られる蝶のように、自分を取り巻く世界の善意を信頼しきっている。
いくら邪険に追い払い危険だと釘を刺してもこりずに遊びにきては手作り弁当を押しつけて、劉が渋々食べるのを嬉しそうに見守っている。
「してあげる」恩着せがましさは微塵もなく、「してあげたい」と無欲に尽くす。
劉が目を逸らした方向に必ずまわりこんで、にっこり笑って向き合おうとする。
だから、苦手だ。
本人にまったくそのつもりがなくとも、精一杯の虚勢と抵抗を見透かされているようで居心地が悪い。
だから
『洋美!』
セイレーンの唄に惹かれて海へと分け入る女たち。
波長の合ったモノにしか聞こえぬという魔性の唄の虜となり、自らの足で夜の海へ漕ぎ出していった女たち。
洋美を追って辿り着き、砂浜に刻印された靴跡の夥しさに愕然とする。
これはちがう、こいつもちがうと一人また一人追い抜かしざま舌打ちし、不穏に荒れ狂う海へこけつまろびつ突っ込んでいく。
砂を蹴散らし走った、足をとられ転んだ、気管に詰まって激しくえずいた。
柔らかな砂地に爪立て掻き毟り立ち上がる、自分の体力のなさが恨めしい、鉛のように重い足に動けと一心に命じ波頭砕ける海に入る、皮膚に沁みる水の冷たさも濡れて纏わり付く服の重さも意識の外に振り捨てがむしゃらにひたすらに肺を痛めつける。
置き去りにされるのがいやで、怖くて、忘却の淵に錨をつけて沈めたはずのもう一人の自分が両手でひしと耳を塞いで叫ぶ。
人魚姫が泡になるのも、お前が海の藻屑になるのも、いやだ。
劉さんと、震える唇が名前を紡ぐ。
か細い吐息が耳朶を湿し、かき抱いてコトンと胸に凭せた頭が、まどろみのリズムで緩やかに上下し始め……
「劉さん?」
訝しげに名を呼ばれ現実に引き戻される。
「どうかしたんですか、ぼーっとして。ひょっとして風邪……」
「ちげーよ、ばーか」
「あ、待ってくださいってば!」
憮然と吐き捨て速度を上げれば、おいてかれまいと洋美が小走りについてくる。あの夜とは正反対だ。
行きに遠回しに探りを入れたが、洋美はあの夜の事をしっかりとは覚えてないそうだ。夢でも見ていたように記憶がおぼろげだという。
ならば、いい。自分の胸にだけ秘めておこう。
「パレットみたいでしたね」
「は?」
「ほら、パレットですよ。小学校で使ってたプラスチックの……こーやって絵の具を絞って」
洋美が絵の具のチューブを絞るまねをし、ようやく合点がいく。
「……ああ」
たしかに、そうも見えた。
はらはらと花びら舞わせたみなもは、色とりどりの絵の具を散りばめたカラフルなパレットのようだった。
「アレを見てちょっと安心しました。暗い海にひとりぼっちじゃ寂しいから……劉さんの言うオフィーリアじゃないけど、せめてお花と一緒に送ってあげたくて。でも……あの花束がホントはブーケだったらよかったのに、お父さんと息子さん、みんなに見守られてもういちど式を挙げられたらよかったのにって……へんですよね、波間の花びらをかき集めたってブーケにはならないのに。死んじゃったら生き返らないのに……」
だってあのひとは、ほんとは貰う側じゃなくあげる側になりたかったはずだから。
女ならそれを夢見るはずだから。
言いにくそうに口ごもり、潤み始めた目を伏せる。
そんな洋美の方はわざと見ないようにし、唇から吐きだす紫煙に乗せて弔い代わりの花占いを口ずさむ。
「茴香、苧環、芸香、雛菊」
「?なんですか、今度は」
「オフィーリアが死ぬ前に知人に贈った花。それぞれを花言葉になぞらえてるんだとさ」
「すごい、物知りですね!」
「……たまたまだよ」
「でも私知りませんでしたし」
「検索エンジンさまさまだな」
洋美は実に率直にひとへの好意や感謝を表現する。
ひとの美点や長所を褒めるのにまったく気おくれしない、妬み嫉みなどの汚い感情は光の方向を向いて健やかに育った彼女と無縁だ。
心底感心した素振りで尊敬のまなざしを注ぐ洋美からやや離れ、眼鏡のブリッジに指をあてる。
度なしのメガネをかけているのは人の視線を遮断する為、人の目を見ない口実を作る為。
まともに目を覗き込まれると、やる気なさそうな態度やスレた言動で隠してる醜い本音や汚い本性を暴かれてしまいそうで落ち着かなかった。
洋美にはそれが通じない。
いくら眼鏡で遮ったところで意味がない。いくら毒づいてもしつこくまとわりつくのをやめず見返りも求めず、ただ自分がそうしたいからという理由で親切を働く馬鹿につけるクスリはない。