大切なことはいつもシンプルだ。
恋愛、仕事、勉強に趣味に社会常識その他諸々だってそうだが、シンプル過ぎるから人間は後付で無駄な要素をごてごてと付けたがる。
自分らしく自分がしたいように生きていると思って、そう公言してきた私も例外ではないのだと、私は封筒に入れた手紙をゴミ箱に投げ捨てながらそう思った。
こんなにも無駄なことを書く必要なんてない。ただ私は本当に伝えたいことを――ただ二言だけ、まだお前が好きだ、もう一度会いたい、と書けばいいだけのことなのに。
「……キャラじゃなくて恥ずかしいわ、そんなの」
自嘲気味に笑みを浮かべながら、私はぽつりと呟いた。
私だけの部屋は呟きをしんと吸収して、音の余韻もなにもかもを尽く吸い取ってしまう。
反響でもなんでもすればいいのにと、苛立った心が刺々しくも思ったが、独り身がなにを望んでも、それは届かない夢幻に過ぎない。
毎日がそんな繰り返しだった。そして私はその繰り返しに、何でもないような言葉に返事が返ってくるなんて何気ない一瞬が、どれだけ尊く幸せなものだったかを、改めて思い知らされる。
この年齢になっても「愛」というのはとても不確定で不安定なものとしか認識できず、なにを指して「愛」と言うべきかもよく分からないような私に、この部屋の沈黙はあまりにも空しすぎたのだ。
いったい何が「愛」だったのかなんて、私には分からない。
好きな彼を思い浮かべながら絵を描くこと、好きな彼と手を繋いで一緒に歩くこと、好きな彼と一緒に映画を見ること、好きな彼を思い浮かべながら、こうして女々しく手紙を書きつづること。
そんな行動行為のどれが「愛」なのか、どこからが「愛」なのかよく分からない。すべてが「愛」のようにも感じるし、すべて私の一方的な幸せが記憶と言う時間のフィルターのせいで美化されているのかもしれない。
私はそこで湿っぽい考え事が頭の中でどんどんと肥大化していくのが嫌になって、タバコを手に取って部屋を出た。
受付を過ぎ、タバコを咥え、ポケットの中のジッポー・ライターを探しながら、店の外に出る。
こういう時、夜は特に嫌いだ。でも夜風に撫でられながらタバコを吸っていると、気が楽になるから、どうしても外に出ないといけない。部屋に篭りっきりだと、私はあの部屋に押しつぶされてしまう。
「ちくしょう。女々し過ぎて情けなくなってくる」
夜になっても営業を続けるコンビニや酒屋の明かりがあるからか、外は真っ暗と言うほどではない。
そんな薄い暗闇を破るかのように、私はジッポーでタバコに火を点けた。ジッポーは勢いよくパッとオレンジ色の炎をあげるが、蓋を閉めると金属音と共に炎は酸欠で鎮火する。
紫煙を吸い込み、ほっと一息つきながら、私はまるでその炎みたいだなと思う。私はきっと酸欠なんだ。だからこうして、前に進めないでいる。停滞は退化だとか、誰かさんが言ってたなと自分で分かっているのに。
「……どうすりゃ良いんだろうな。私、寂しいのにさ。寂しいって言えなくなっちまったんだよ。いつの間にか」
壁に寄り掛かりながらタバコを吸って、夜空を見上げながら自嘲気味に笑みを零す。
地上にある人工の光が多すぎるからか、小さな星は嫉妬して夜空を飾るのを止め、大きな星と月だけが夜空にキラキラと散らばっている。
そのうちきっと、星は地上が明るすぎるからどこかに行っちまうんだろうなと、どこかの映画でありそうな詩的なことを考えては見るが、それすら心に響かない。
ふいに心の中で『西部戦線異状なし』の文が浮かぶ。
――僕の心はすっかり落着いた。幾月、幾年と勝手に過ぎてゆくがいい。月も年も、この僕には、何も持ってきてはくれない。何物も持ってくることは出来ないのだ。
僕はまったく孤独だ。なんの期待も持ってない。僕はなんの恐れも無くこの月と年とに相向うことができる。僕の過ごして来たこの幾年かの生活は、まだ僕の手と目の中に生々しく残っている。
ああ、そうかと私はくすくす笑う。
現実はまるで戦場のようだ。ひたすら時間にせっつかれ、誰かと話し合い笑いあい、共通の話題を探してさも同類であるかのように振る舞わなければ生きていけない。
そうしてみんながみんな同じような格好になり、髪型になり体系になり、口調や考えや文章や思考すら似通っていくんだろう。まるでジョージ・オーウェルのディストピアのように。
私は現実と言う戦場でぽつんとつっ立っている、パウル・ボイメルなのだ。甘えたい、縋りたい、誰かと苦しみや悩みを共有したいと思っていても、その誰かはもうすでに私の手の届かないところにいる。
傑作じゃないか。ボイメルは最後にどうなるんだったっけ? ルイス・マイルストン監督の、古い映画だ。あれはたしか―――。
「やめろよ。自分で自分追い詰めて、何になるっつんだ」
がつん、と空いている手で額を軽く殴る。瞼の裏で真っ白な光が瞬いて消え、微かな鈍痛だけが頭に残った。
昔っから考えすぎるのは性に合わないんだと思いながら、私は息を吸って、紫煙を夜空に向けて吐き出す。
こうして煙草を吸って酒を飲んでいれば、考えすぎずに済む。それに、暗闇に溶けていくように消える紫煙に比べたら、私はまだ恵まれているのだ。
「新しい一週間が始まるぞ。今日は月曜日だ――か」
短くなった煙草をそのまま煙管の吸い口に差し込み、私は紫煙を吸っては吐く。
そうしているだけで、うだうだと女々しく考え込んでいた自分が馬鹿みたいに思えてきて、清々する。
身体がニコチンとタールで汚染されていくのと引き換えに、私はこうして精神的に忘れたいことを一時的に忘れることができるってわけだ。
酒も同じく、嫌な記憶とか感情を一時的に忘れるためにある。忘れられないものは、なにをしたって忘れられないものではあるけれど、たまに背中から降ろしてみたくなる時もある。
嫌だ嫌だと言ったところで、頭の中にへばり付いた記憶や思い出が消えるわけでもない。会いたい会いたいと願ったところで、会えるわけとは限らない。
世はすべて事もなし。結局は、そういうことなんだろう。
「さて、寝るか。明日は月曜日だ」
くすりと笑いながら、私は部屋へ戻る。
忘れられない記憶を忘れて、また思いだして、また忘れて。
いつしか完全に忘れることができるのだろうかと思いながら。
そして同時に、それを完全に忘れること自体を恐れながら。
私はきっと今日も明日も、巡りくるすべてを愉しもうとしながら生きる。
ただそれだけ。たったそれだけ。
――というか、愉しめるんならなんでもいいわ。