大切なことはいつもシンプルだ。
恋愛、仕事、勉強に趣味に社会常識その他諸々だってそうだが、シンプル過ぎるから人間は後付で無駄な要素をごてごてと付けたがる。
自分らしく自分がしたいように生きていると思って、そう公言してきた私も例外ではないのだと、私は封筒に入れた手紙をゴミ箱に投げ捨てながらそう思った。
こんなにも無駄なことを書く必要なんてない。ただ私は本当に伝えたいことを――ただ二言だけ、まだお前が好きだ、もう一度会いたい、と書けばいいだけのことなのに。
「……キャラじゃなくて恥ずかしいわ、そんなの」
自嘲気味に笑みを浮かべながら、私はぽつりと呟いた。
私だけの部屋は呟きをしんと吸収して、音の余韻もなにもかもを尽く吸い取ってしまう。
反響でもなんでもすればいいのにと、苛立った心が刺々しくも思ったが、独り身がなにを望んでも、それは届かない夢幻に過ぎない。
毎日がそんな繰り返しだった。そして私はその繰り返しに、何でもないような言葉に返事が返ってくるなんて何気ない一瞬が、どれだけ尊く幸せなものだったかを、改めて思い知らされる。
この年齢になっても「愛」というのはとても不確定で不安定なものとしか認識できず、なにを指して「愛」と言うべきかもよく分からないような私に、この部屋の沈黙はあまりにも空しすぎたのだ。
いったい何が「愛」だったのかなんて、私には分からない。
好きな彼を思い浮かべながら絵を描くこと、好きな彼と手を繋いで一緒に歩くこと、好きな彼と一緒に映画を見ること、好きな彼を思い浮かべながら、こうして女々しく手紙を書きつづること。
そんな行動行為のどれが「愛」なのか、どこからが「愛」なのかよく分からない。すべてが「愛」のようにも感じるし、すべて私の一方的な幸せが記憶と言う時間のフィルターのせいで美化されているのかもしれない。
私はそこで湿っぽい考え事が頭の中でどんどんと肥大化していくのが嫌になって、タバコを手に取って部屋を出た。
そのうちきっと、星は地上が明るすぎるからどこかに行っちまうんだろうなと、どこかの映画でありそうな詩的なことを考えては見るが、それすら心に響かない。
ふいに心の中で『西部戦線異状なし』の文が浮かぶ。
――僕の心はすっかり落着いた。幾月、幾年と勝手に過ぎてゆくがいい。月も年も、この僕には、何も持ってきてはくれない。何物も持ってくることは出来ないのだ。
僕はまったく孤独だ。なんの期待も持ってない。僕はなんの恐れも無くこの月と年とに相向うことができる。僕の過ごして来たこの幾年かの生活は、まだ僕の手と目の中に生々しく残っている。
ああ、そうかと私はくすくす笑う。
現実はまるで戦場のようだ。ひたすら時間にせっつかれ、誰かと話し合い笑いあい、共通の話題を探してさも同類であるかのように振る舞わなければ生きていけない。
そうしてみんながみんな同じような格好になり、髪型になり体系になり、口調や考えや文章や思考すら似通っていくんだろう。まるでジョージ・オーウェルのディストピアのように。
私は現実と言う戦場でぽつんとつっ立っている、パウル・ボイメルなのだ。甘えたい、縋りたい、誰かと苦しみや悩みを共有したいと思っていても、その誰かはもうすでに私の手の届かないところにいる。
傑作じゃないか。ボイメルは最後にどうなるんだったっけ? ルイス・マイルストン監督の、古い映画だ。あれはたしか―――。
「やめろよ。自分で自分追い詰めて、何になるっつんだ」
がつん、と空いている手で額を軽く殴る。瞼の裏で真っ白な光が瞬いて消え、微かな鈍痛だけが頭に残った。
昔っから考えすぎるのは性に合わないんだと思いながら、私は息を吸って、紫煙を夜空に向けて吐き出す。