寝子高の夏休み明け。
宿題を友人の答案丸写しでなんとか切り抜け、担任と各教科の先生からの呼び出しをなんとか回避し、やる気のない不良たちが学校から去った、まだ夏の香りの残る頃。
九夜山まで苦労して登って描いたスケッチを元に、私は一枚の絵に色を塗り、頭の中であれこれと配色や色合いの調整を考え、他人が見た時のイメージなんかもして、ぺたりさらりとキャンバスに色を塗り重ねていた。
中学生気分で高校一年を無為に過ごした私は、高校二年生で一新するのだ! という意気込みをそのまま絵に注ぎ込んでいた。だからそれだけ真剣だし、親友の理香曰く「銀行強盗が銀行の仕切り図を睨んでいるような」表情をして作業をしているらしい。
そんなことねえよと一笑したが、あとで作業中の私を写メったのを見せて貰ったら、本当にその通りで笑ったらいいか顔を顰めたらいいのか、よくわからなかった。彼氏の拓氏が「皐月らしいじゃん」って言ってたんで、結局は笑っちゃったけど。
まあ、そんなこんなで、私は美術室で作品を仕上げるのに夢中になっていた。他の人の出入りとか、ほとんど気にならない。そもそも、気付かなかった。
その時の私と言ったら、集中し過ぎていて指にくっついた油絵具をそのまま白衣で拭ったり、とにかくその絵を描くことだけに集中してしまっていて、完全に自分の世界にのめり込んでた。
作業が一段落したのは窓からオレンジ色の夕陽の光が、室内に入ってくるようになってからだ。窓の外を見て、時計を見て、もうこんな時間かよと愚痴った後、自分の白衣を見てがっくりと肩を落とす。
「まーたやっちまったよ」
白衣というよりは、白衣だったものと言った方が良いだろう。
緑、黄、青に赤と紫に紺。よくもまあここまで色々と色を使えたもんだと自分に感心する。もう買い替えるの止めるか、と思いつつ、私は自分に納得させるように「仕方ない仕方ない」と呟いて、画材の片づけを始める。
片付け作業を終えると、なんだかさっぱりした心持ちになる。私は自慢げに、誰もいない美術室でにやりと笑い、学生鞄の中から棒付キャンディーを取り出してそれを咥えた。ころころと口の中でキャンディーを転がし、フル回転させた頭に糖分と言うちょっとしたご褒美。
追記:2:Reと3:Reの間
今すぐにぶちのめしたい衝動を必死で抑えながら、私は声を絞り出す。なんだか、泣き出すのを堪えているような声になった。
「理香に、今すぐ、謝れ」
「んだよ。謝ってほしいのはこっちの方だぞ。勝手にヒステリー起こして滅茶苦茶にしやがってさ。変に注目引いちまったじゃねえか。どうしてくれんだよ、おい」
声がダメだったんだな、と強気になって詰め寄ってくる男を見ながら、私はにやりと笑みを浮かべる。
我慢はできないんだ。なんか中学校の時に精神的ショック受けちまって、そっからちょっと我慢は無理なんだわ。
だからお前、ぶち殺されても文句言うんじゃねえぞ、クソ野郎―――。
「自分に自分でご褒美って、なんか貧乏臭ぇけどなぁ」
そうは言うけれど、その貧乏臭さが私はちょっぴり好きだ。
親元を離れて一身寝子島へ――そして猫鳴館に入寮して、親からの仕送りを出来るだけ節約して使い、残金はすべて貯金に回すというサイクルを繰り返して、もう一年近くになる。
ようやく寮生活も慣れてきて、恋愛相談とか恋愛話をできる親友も結構できた。去年の終わりなんて、今の彼氏に告白してオーケイ貰って、高校生のカップルらしいことを普通にやってエンジョイしてるくらいだ。
案外いけるもんだなと、私は鞄を肩に通しながら思う。両親が金持ちでも、ここじゃそんなこと関係ない。金目当てに告白してくる奴も、私の生まれを妬む奴も、この島にはいない―――本土の中学みたいなことには、きっとならないはずだ。
「中学じゃ、酷かったもんな」
くたくたに疲れた身体を引き摺るようにして、私は美術室を出る。
美術室を出たのは私が最後なので、鍵も私が締めた。こんな私でも鍵を任されているのは、成績は悪いが警察沙汰になるようなことには手を染めない生徒だと、先生も分かっているからだろう。
ここの高校は良い先生ばっかだからなぁ、個性的だけど――と思いつつ、私は舌先でキャンディーを舐め回しながら、職員室に向って歩み出した。
どうやら夏休みに慣れ切った学生はその本文である学校という空間そのものに拒絶反応を示すのか、夕方にまでなると学校に残っている生徒の数はかなり少ない。廊下を歩く生徒の数も疎らで、室内の声よりも野球部の掛け声の方が大きく聞こえるほどだ。
拓氏も掛け声出してんのかなと、野球部のスタメン五番の彼氏のことをぼんやりと思いながら階段を登る。怒ると怖いし仏頂面なことが多いけど、あいつもあいつで笑うと可愛いんだよなと、惚気にも程があることを平然と思える自分がちょっと怖い。
でも良いじゃんか、と私はにやけながら自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。中学校で金目当てに告白されて、本気で恋愛してると思ってたら、お前なんてただの財布だったんだぜとか告白されるよりは、よっぽど良いじゃんか。すっげぇ幸せで面白おかしいじゃんか、と。
「鍵返したら見に行ってみっかな、練習。見んなって言うんだろうなぁ、あいつ」
なんで見ちゃだめなんだよ、と私が言うと、あいつはむすっとした顔で、一生懸命やってっとこは見んな、って言うからとにかくそれが可愛い。
私を女の子扱いしてくれるのも嬉しいし、あいつと一緒にいるのも嬉しい。これがきっと高校生の恋愛、高校生の青春。極端すぎてそのまま倒れ込んでしまいそうなアンバランスさが心地良い、思春期の恋なんだろう。
「皐月!」
「はぇっ?」
階段の踊り場で踊り出しそうな想像の飛躍を打ち破った高いソプラノの叫び声に、思わず変な声が出た。
ドキドキと恥ずかしさと驚きで高鳴る胸を抑えつつ、私は声が降ってきた方を見上げる。二階のところで手すりに片手をついて、私を見ている女子生徒がいた。
「な、なんだよ……恵里かよ。そんな大声出すんじゃねえよ。ビビったじゃんか」
「理香が、理香が大変なんだよ! 家庭科室でなんか……なんか喧嘩して、あいつの彼氏きたら変なこと言い出して………」
「はぁ? なんだそりゃ。私が馬鹿だからかもしれねえけど、全然意味分かんねえんだけど」
「良いからこっち来て!」
あと皐月が馬鹿だから分かり易いようにって言葉選んでるんだよ! と酷いことを言われつつ、私は階段を一息で登りきって二階に到着。
ちらっと家庭科室の方を見てみれば、見覚えのある先生や文化部の生徒が野次馬よろしく家庭科室の中を覗き込んでいる。なんかのドラマで見た光景だなと、私はキャンディーをばりぼりと噛み砕いで咀嚼しながら思った。
残った棒を白衣のポケットにつっこみつつ、私は言う。
「なに、ようするに修羅場になってるわけ?」
「そうそう。なんか理香の彼氏が二股かけてて、それで理香が私が本命なのにって彼女の方に突っかかってって……それでその、彼氏が理香に――」
「理香に?」
はっとした顔をして、恵里が口を押さえる。私が中学校でどんな経験をしたのか知ってるからだ。
恵里に続きを言うように促したが、私はそこから先なんて聞かなくても分かった。私も言われたのだ。淡々と悪意なんて欠片もない言葉で、心がぐちゃぐちゃに掻き乱されて、もう何もしたくないのに暴れ回りたい欲求に襲われた事があったんだ。
私はその時、見捨てられたネコのように孤独で無力だったのに、心のどこかでは暴力と復讐を訴えていた。あいつに私以上の苦痛を味あわせてやりたい、でもあいつのあの笑顔が頭から消えない。幸せだった記憶と苦痛が一緒くたになって、胸が張り裂けそうだった。
始まったのは、部屋に引き篭もって呪詛を呟いて、部屋のぬいぐるみをずたずたにしたり、カーテンや壁、あらゆる物に八つ当たりする、感情がろくに制御できない日々。
誰かが私を見ているような気がする。誰かが私のことを噂している気がすると言った幻聴幻覚もあった。半年かかってやっと学校に戻っても、勉強も会話にも適応できず、仕方なく家庭教師を雇う羽目になった。
それもこれもがすべて、あの一つの言葉に集約されている。私の信頼と初々しい女の心を切り裂いた、あの言葉に。
瞬間、ぶちっと、頭の中でなにかが切れたような音がした――気がした。
「なんて言った」
「……皐月、ちょっと目怖いよ」
「なんて言ったんだ」
「皐月、落ち着いてって。私が皐月呼んだのは、理香を慰めて貰うためで、そういうのやってもらうためじゃないんだって」
「知るかよ」
私はもうキレちまってるんだぜ? 自嘲気味に口元に笑みを浮かべながら、私は言った。
肩に掛けた鞄を恵里に放り渡して、なにか言いたげな恵里に背を向けて私は廊下を歩いていく。出来るだけ平静を装って、野次馬の一人であるかのように、普通に歩いていく。
芸術科の先生に肩を支えられながら、理香がこっちに来た。混じりっ気のない黒髪のセミロングが尾を引くように風に揺られ、前髪の切れ目から真っ赤に腫れた目元と涙の跡が見える。
なにか言おうと思ったが、先生に聞かれてこっちがしようとしてることが察知されたら元も子もない。私は親友をそのまま見送り、家庭科室から出てきたちょろ長い男を睨みつける。
理香に嫌われるかもしれない。でも私は、この野郎が許せない。
「お前」
野次馬がぎょっとして私を見るのが気配で分かった。
一方の男の方は気怠そうに私に視線をやっただけで、どうとも思ってないようだ。
今すぐにぶちのめしたい衝動を必死で抑えながら、私は声を絞り出す。なんだか、泣き出すのを堪えているような声になった。
「っらぁぁぁ!!」
ゆったりとトロ臭い動きで歩み寄ってくる男との距離を目測で確認し、左脚を一歩踏み込み、右足に体重を乗せて男の中心を思いっきり蹴り上げる。
悲鳴だかなんだかよく分からない声をあげて、男が前かがみになった。今度は接地した右足に体重を乗せて、半歩左足を下げながら体重移動。右膝をぐっと曲げて、そのまま体重を乗せて右横蹴りを男の胸目掛けてぶち込む。
かふっ、と男が息を吐く。肺から叩き出された空気が、喉から吹き出しているだけだろう。
呆然としている野次馬どもの間を抜け、私は股間と胸を押さえて苦しそうに喘ぐ男の脇腹を、右足で思いっきり蹴り上げる。爪先で顔面をがつりと蹴り、鼻っ面を抉るように蹴飛ばしてやった。
その度にぎゃっ、と男が鳴く。泣き喚いて、慈悲を請う。
ふざけるなと、私は足を持ち上げて肩を何度も何度も踏みつけ、このまま肩の関節を粉々に踏み潰してやろうかと思った辺りで、先生の誰かが後ろから私を羽交い絞めにして、耳元で言った。
「止めろこのバカタコがぁ!!」
―――
あれからもう十年近く経ってるわけか、と私は寝子島高校の正門前に立ち尽くしながら思った。
今日は寝子島高校の創立記念感謝祭。懐かしき我が母校は学生の若々しさだけでなく、お祭り気分でどこもかしこも楽しそうな表情の人ばかり。
ミニシアターの方を臨時休業にしてまで来た価値はあったかなと思いつつ、私はパンフレットを受け取って学内に入る。
さて、どこにどんなのがあるのやらと、パンフレットを開ければ、なんだかそこには「出場おめでとう!」と書かれたカードが。
「……はぁ?」
いったいなんのことだよ、と思いつつ、カードを太陽に透かしたり引っ繰り返してみたりしていると、ぽんっ、と肩に手を置かれる。
聞こえてきたのは、あわや殺人未遂事件になりかけたあの時、私を羽交い絞めにして怒鳴りつけたあの声だ。
「なんだ、鳳翔も出場か」
「なんだかよく分からねえけど、なんか出場みたいっすよ熊先生」
どういうことっすか?
いや、これこれこういうイベントがあってだな―――。
えー……なにそれ恥ずい。
そして制服☆トリエンナーレに
(続くと良いねぇ)