追われる身のはじまり｜リアクション

追われる身のはじまり

　刀が襲撃を受けたのとほぼ同じ時刻。
　小山内海は課題のために、ひとり美術室で絵を描いていた。
　筆を休め、完成が近づいた絵を見つめていると、ふと背後から小さな声が聞こえてきた。
「上手いもんだねえ〜、絵を描くのが得意なのか〜い？」
「！？」
　驚いて、周囲を見渡す。けれど、部屋の中には誰もいない。
「なぁ、クローネを知ってるか～？」
　再びすぐ後ろから聞こえた声に、海は固まった。
　ゆっくりとした調子だったが、その声には悪意が見え隠れしていた。
　——クローネを知っているかって……知ってる、知らないはずがない。
　けれど、知っていると答えるのは躊躇われた。
　——友好的な感じじゃないよね……。でも、なぜそんなことを？　クローネの仲間か何か？
「だんまりってのはよくないよな〜。それって、知ってるってことかもしれないしな〜」
　チクッと背中に何かが刺さるのを感じる。そして、力が抜けていくのも。
「知ってるなら、消えてもらわないとな〜。知りすぎてる奴はいないほうがいいんだよお〜」
　——消えてもらう……。いない方がいいって、それって……。
　……殺される。そう思ったら、額の傷がじくじくと痛み出した。
　忘れたくとも忘れることのできないあの日の記憶が蘇ってくる。
　——死ぬ……またあの時みたいに？　苦しくて暗い所に？　赤くて痛い所に？　動けなくて何もできない所に？
　冷たい汗が、海の頬を流れ落ちた。
　——嫌だ！　もうあんなのは嫌だ！　あんな思いはもうしたくない、死にたくない！
　手の中にあった筆で奇跡を描き、ろっこん＜アクセラレイトライン＞で前に跳んだ。
　振り返り、何者かの姿を確認しようとする。
　だが、先ほどと同じようにそこには誰もいない。気配はずっと背中に張り付いているのだ。
「それがお前のろっこんか〜？　そんなんじゃ、俺から逃げられないんだよお〜」
　ゾッとするような声だった。
　このままではやられる、やられる前にやらなければ……！
　半ばパニックになりながら、海は筆をまとめて掴むと、目の前に下に向けて軌跡を描いた。
　原理はわからないが、敵は常に自分の背後にいる。
　——それなら！
　振り返り、ろっこんで背後の者を捕らえる。線に触れれば引きはがされ、床に叩き付けられるはずだ。
「へへ、なるほど、そういうことか〜。けど、残念だったな〜」
　背後の者はビクともしない。
「お前のろっこんはパワーがないんだよお〜」
　——！？　だ、だったらこれはどう……！！
「ぎゃあっ！？」
　次の瞬間、傍にあったパレットが手裏剣のように背後の者に突き刺さった。
　背中に向かう軌道に沿って、周りのもの、筆や色鉛筆、ペインティングナイフ……が次々に飛んでいく。
　これには背後から悲鳴が上がった。
「ぎゃああああああ〜〜〜！！！」
　フッと脱力感が消えるのと同時に、背後の気配も消えた。
　しんと静まり返る美術室に、荒くなった海の呼吸だけが響いていた。
　——終わったの……？
　海はおそるおそる窓ガラスに自分の姿を映してみる。そこには青ざめた自分の姿が映っていた。
　震える身体を落ち着かせ、荒れた息を整える。どうやら危険は去ったようだ。
　——だけど、これ……。うう……。
　教室には様々なものが無惨に散乱していた。
　——片づけるの、私……なんだよね、きっと……。
　パニックになりながらも、描きかけの絵だけは飛ばさなかったが、これは掃除に骨が折れそうだ。
　安堵の息をもらしたのも、束の間、憂鬱なため息をもらす海なのであった。

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