声のない世界で｜リアクション

声のない世界で

◆
マイナスの天使の力もある。
橘明里は、そのことを知った。
声が出ない、なんてこともあるなんて――今まで知らなかった。
それはつらいわけじゃないけど、キツいことだということも。
だって、明里はいつもハイテンションで、いろんなことを話していて。
そんな当たり前でちっとも疑問に思わなかったことにどれだけ頼っていたのかを、今噛み締めているのだから。

周りから声が聞こえる。
それは、普段と違って妙に静かな明里を心配する声だ。
――どうしたの、何かあったの？
――悪いもんでも食べたのか？
――体調でも崩したのかな？
違う、違う。
明里は何もしていない。
天使がいじわるをしただけで、明里は何もしていないのだ。
そうやって伝えたいけど、伝え方がわからない。
いつも話しているようにできないのが、ひどくもどかしい。
どこにいるかもわからない天使に、心のなかで問いかける。
（どうして意地悪をするのなの？）
明里が、天使の力をいたずらに使いすぎたから？
答えは返ってこない。
口に出せない問いには、否定も肯定も返ってくることはない。
だけどもしそうなのだとしたら、謝るから。
明里はただ、楽しく生きたい。
楽しく生きて、皆の楽しい心をわけてもらいたいだけなのだ。
だって。
明里の友達は、そんなごくごく当たり前で楽しい場所に居るはずだから。
だから。
だからお願いしますなの、と。明里は机の上で小さく手を組んだ。
まるで、何かに祈るように。
あるいは、懺悔でもするかのように。
実際、それは明里にとっての懺悔だったかもしれない。
（あかりのごめんなさい、聞いて欲しいなの）
プリンもあげます。
勉強もします。
だから、皆と『楽しい』を分けあうための天使の力を。
明里の声という名の、天使の力を。
（もう一度、あかりが使えるようにして欲しいのなの）
空も飛べない声をなくした天使候補生は、大きな目を伏せてただただそれを願った。

◆
美術室で絵を描いていた三宅葉月の視界に、壁にかかった時計が入った。
既に昼休みを過ぎ、午後の授業の始まる時刻になっているのに気付く。
集中して絵を描いていたから、どうやら今の今まで気付かなかったらしい。
誰にも呼ばれたりしていないとはいえ、流石に授業に出ない訳にはいかない。
とりあえず、美術室を出た。
授業中だから、廊下に響くのは授業を進める先生の声くらいだ。
自分の教室に戻ると、遅れてきたので当然先生に見咎められた。
遅れてすいません――と、言おうとして、声が出ないことに気付く。
風邪でも引いたか、それともお昼休みの間１人で居たからすぐには声が出なくなったのか。
先生の訝しげな視線。遅れてきたうえに無言となれば、それも当然か。
我が事ながらおかしいと小さく首を傾げながら、とりあえず頭だけ下げて席へ着いた。
しばらく教室に居て、ぼんやりと授業を聞き流しながら過ごすうち、先生に当てられて自分が声を出しても出ない状態になっていることに気付く。
その場は身振りで声が出ないことを伝えてやり過ごした。
葉月はもともとおしゃべりではないし、うるさいのはあまり好きじゃない方だ。
だからいっそのことなら、周りもまとめて声が出なくなってたら便利……いや、それは少し不便か。
まあ、いずれにしても。
『いつものろっこん』とやらの影響だから、そのうち収まるだろう――と割り切った。
そうしているうち、ふと想像する。
声のしない世界、声のない教室。でもそこは決して無人ではなくて確かに人がいる。
まるでテレビの音声をミュートしたような、不思議な世界を。
スケッチブックを取り出して、ひたすら絵を描き始めた。
そんな声のない世界を、絵の中に切り取れたら。
そんな風に思いながら。