何も死守しない普通の一日｜リアクション

何も死守しない普通の一日

　須崎蒼志は公園に立ち寄った。端に設置された水飲み場で側頭部の一部を洗う。濡れた部分を何度も握り、掌の状態を確かめた。
「ようやく落ちたか」
　黒いコートのポケットから白いハンカチを取り出し、側頭部を擦り上げた。一息ついて空を見上げると、カラスの群れが飛んでいた。
「もう、糞は勘弁だ」
　気だるげに蒼志は公園を後にした。表情は冴えない。歩いていた足が止まる。
「……気晴らしは必要か」
　蒼志は繁華街へと歩いていった。

　落ち着いた雰囲気の店にビリヤード台が整然と並んでいる。私語はほとんど聞こえて来ない。球を撞く音だけが小気味よく響く。
　蒼志は預けていた自身のキューを受け取り、角の台に案内された。近くの椅子にコートを預けて白いシャツと黒いスラックスの姿となった。覇気のない目に強い意志が宿る。ビリヤードプレイヤーへと静かな変貌を遂げた。
「タップは問題ない」
　キューの尖端を見た。念の為に指で状態を確かめる。四角いチョークはいつでも使えるように台の縁に置いた。
「ラシャの張りも良いようだ」
　台に張られた布に指の腹を滑らせる。台に平行になるように視線を下げた。
「すぐに始めてもいいけど、肩慣らしにバンキングをするか」
　用意されたラックを横に押し退けた。白い手球を台に置き、姿勢を低くしてキューを構える。何度か試すような動きを経て撞いた。
　勢いよく転がる球は向かいのクッションに当たって戻ってくる。焦らすような動きで止まった。手前のクッションとの隙間は五センチ程度であった。
「調子は悪くないな」
　改めてラックを中央に戻し、ゆっくりと枠を外した。手球を置き直すと蒼志は再び構えた。手間にある一番の的球を狙う。
　放ったブレイクショットは一番を捉えた。衝撃で他の的球は逃げ惑う。サイドポケットに五番が入った。少し遅れてコーナーポケットに七番が落ちていった。
「出だしもいいね」
　そこで一旦、口を閉じた。台に散らばった的球を見やる。眼球が鋭く動いた。撞いた球の動作を再現しているかのようだった。
　その後、蒼志は淡々と的球をポケットに落としていく。
　その途中でプレイが止まった。的球の四番に当てた手球で九番を狙える。角度は悪いがポケットに落とせる可能性は残されていた。
　ナインボールは九番を取った者が勝者となる。蒼志はキューの方向を変えて四番をポケットに入れた。続いて六番、八番を難なく落とす。
　最後の九番はサイドポケットに叩き込んだ。
「よし、マスワリ達成だ！」
　その声に顎鬚を生やした男性が驚いたという風に口笛を吹いた。蒼志は笑って、どうも、と返した。
　その後も蒼志はマスワリを続けた。決して平坦な道程ではなかった。台の縁に腰掛けてジャンプショットを決めた時には全身が喜びで震えた。手を止めた人々が拍手で成果を讃えた。
　人々が注目する中で蒼志はプレイを続けた。周囲に心を乱されることなく、キューを構えて的球をポケットに落としていった。

　プレイを終えた蒼志が外に出る。そよぐ風に薄っすらと目を閉じた。
「はぁ、すっきりした」
　大きく伸びをして家路に就いた。赤い空には親子らしいカラスが鳴きながら九夜山に飛んでいく。
「なんか、良い一日だったよな」
　思わず出た自身の言葉に蒼志は笑った。
「人生ってそんなもんだろ？」
　コートのポケットを弄って九番のボールを掴み出す。二度、三度と宙に投げて受け止めて小走りで帰っていった。

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