寝子召地蔵と涙の川｜リアクション

寝子召地蔵と涙の川

「あら、あら……？」

　ここが何処なのか、自分の身に何が起きたのか、雪代伊織は理解が追いつかずに戸惑いを隠せなかった。たしか、砂掛谷駅でロープウェイを降りて、そのまま街道の入り口へ続く橋まで歩いて行って……そう、橋の袂の寝子召地蔵が涙を流していたのに気づいたところまで、伊織ははっきりと覚えている。

「（ハンカチ……そうですわね、お地蔵様の涙をこれで拭おうとしていたはずです）」

　手に持ったままのハンカチを見て思い出したことをひとつずつ整理し、あの寝子召地蔵もそういえば目の前から消えていること、いやむしろ周囲の風景が全く変わってしまっていることにあわててしまい、すわこの歳になって迷子かと帰り道を探し始める伊織。

「早く戻りませんと……！　あら？」

　ふと、伊織の目に映った子供の影。ちいさく細い体に似合わないぶかぶかのパジャマを着て、伸ばしたままの長い髪。うつむいて絵本を読む姿。にわかには信じがたかったが、あの子供はもしかしたら……。
　嗚呼、そうだ。あの子供は幼いころの伊織自身だと、伊織は誰に言われるでもなく感じ取る。幼い子供だというのに生気が感じられない、はかない雰囲気は記憶の中の姿と驚くほど一致している。それなら、このふしぎな見知らぬ場所にもぼんやりとだが納得することが出来た。落ち着きを取り戻した伊織は、幼い伊織にそっと近づく。

「お嬢さん、何を読んでいるんですの？」
「……おねーさん、どなたですか」

　知らない人と話をしてはいけないとでも言いつけられているかのように、幼い伊織は本のページから目をあげようともしなかった。そう、こんな風にこまっしゃくれた子供だったと思い出し、伊織はやさしく笑って隣に座る。

「いいことを教えて差し上げますわ、私、実は……未来の貴女なのです」
「うそつき」

　相変わらず、目も合わせてもらえない。今なら分かる、無愛想なのはきっと、幼いあきらめの果てにあった受容だったのだと。

「わたし、おとなになれないんです。だからおねーさんはうそつきです」
「……それはどうでしょう？　ねぇ、子供の私」

　幼いころに心臓を患っていた伊織は、自分に待ち受けている運命を悟ることの出来る、賢い子供だった。そしてそれが不幸であるとは思わず、怯えることもせず、ただ淡々と残された日々を過ごす、言ってみれば哀しく無気力な子供でもあった。

＿＿そう、哀しいだけですのよ、そんな生き方

「世界は貴女が思うよりずっと、たとえばそうですね……壁に描かれた一枚の蔦の葉よりも、素敵で、やさしい奇跡に満ち溢れているんですのよ？」
「……おねーさんはうそつきじゃなくただのへんなひとでしたか」
「さぁ、どうでしょうね？　ふふふ」

　嘘なのか、変な言葉なのか、それは貴女がおとなになれば分かることですよと笑い、伊織は幼い伊織の髪にそっと指を通した。すこしだけきしむ手触り、いとおしそうに撫で、今ここに在る二人の自分の差に目を細める。

＿＿だいじょうぶ。だって、今の私はうんと幸せですもの

　だから、貴女も前を向いて。
　きっと、壁画の蔦の葉よりもたしかなものを、その目で見つけられるから。

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