寝子召地蔵と涙の川｜リアクション

寝子召地蔵と涙の川

　川のせせらぎよりも、ゆるやかに吹くぬるい風の音よりも、篠崎響也の耳を捕らえて離さなかったのは子供のすすり泣く声だった。ここが見知らぬ場所であることも忘れ、響也は戸惑いながら辺りを見渡す。

「（あれか……？）」

　響也の目が捉えたのは、五歳ほどの男の子の姿。赤みがかった茶色い髪、その色に強く記憶を揺さぶられる。河原に座り込んで、あふれる涙にかまわず肩を揺らし、それでも歯を食いしばり声をあげまいとする泣き方は、幼い子供のそれでは決してないように見えた。
　なんて、なんて哀しい泣き方をする子なのだろう。そうどこか他人事のように、だが目を離せずにいた響也は、顔をあげてわかったその子供の容姿に目を見開く。

＿＿俺だ

　あそこにいるのはかつての自分。頭でなくこころでそう理解した瞬間、響也はあの涙の意味を知る。
　きっとろっこんの影響なのだろう、そういうことには慣れたつもりでいたが、まさかこんな光景も見せられるとは思ってもみなかった。動揺は戸惑いを心の前に押し出してしまう、そこにあるのは困惑だけかと思ったが、そうでもないらしい。

　あの年頃の響也は、海外での演奏活動を主軸にしていた両親に連れられて、海外に住んでいたはずだった。もちろん自分で住めるところを選べるはずなどなくて。

　友達もいない。
　言葉もわからない。
　大好きな父と母は親である前に音楽家だった。

　五歳の子供が相手にしていい大きさの孤独ではないと、今ならわかる。だが幼い響也のこころをすっくと立たせていたのはきっと、もっと幼い妹からのいたいけな信頼だったのだろう。言葉にも、声にもならない嗚咽を漏らす唇を恥じるように、ぐっと歯を食いしばる幼い響也の姿は、たしかに兄と呼べるものだった。

　だからこそ、分からなかった。どうすれば、あの涙を止めることが出来るのか。

「……おい、お前」
「！　……ひっ……ぅ」

　考えあぐねて、答えが出るより先に言葉が口をついて出る。だが、もうすっかり背の高い響也が不器用にかけたその声は、びくりと幼い響也の身をすくませただけで。

「（参ったな）」

　幼い自分なのに、いや、自分だからこそどう扱っていいかわからない。まさにお手上げと言いたくなるような空気の中、響也は肩にかけた相棒の存在を思い出す。

＿＿ああ……そうか、自分なら

　そっとおろしたバイオリンケースに手をかける。顔を出した相棒は陽の光を浴びて、やっと思い出したかとでも言いたげな表情を見せたような気がした。

「……」

　バイオリンを肩に載せ、左手の指を弦に。いちばん低い音を出すG線にそっと弓をかければ、ここちよく寄りかかれる壁のようにやさしい音が、ふたりの響也の間を満たしてゆく。

＿＿そうだな

　バイオリンの旋律に混じり、時折、幼い響也が鼻をすする音が響く。だが、押し殺したような嗚咽はもう聞こえることはなかった。

　慣れ親しんだ指の動きに躊躇いは無い。幼い自分を見た瞬間に生まれていた大きな戸惑いも、困惑も、どこかへときれいに霧散していった。音がひとつ、またひとつと生まれ、メロディになってゆく美しい過程。自然と響也の口元には笑みが浮かぶ。

　今は幼くとも、いずれこうなれる。だから、泣かないでいい。

「音楽はいいよな」
「……うん」

　短いやりとりの外側に、確かなものがある。
　いつのまにか泣き止んでいた幼い響也のまっすぐな眼差しを受け止めながら、響也は言葉にならない、だけど確かにある何かを伝えきろうと、一心にバイオリンを弾き続けた。

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