貴方の声が聞けるなら｜リアクション

貴方の声が聞けるなら

スーサイド・デッド・エンド

　　【彷徨い歩く　ピアノの音をよすがとし】

　『それでは、お代に貴方の声を頂きます』

　兎が唐突にその言葉を言った時、斑鳩遙は驚きもせず「ああ、そんなところだろうな」と思った。
　そんな人生を送ってきた。ある一人の男のせいで。
　そんな一人の男の為に。

　「逍遥の遥と書いて【よう】か。孤独を運命づけられた名前だな」
　嘲うにとても良く似た、そして静かな声がそこに響いた。
　それは、確かに願った通りの親友の声。もう、この世には居ない彼の人の声。

　１１年前、初めて会った時。
　名前の由来を聞かれ、興味が無い為知らないままだった由来に、自分はそのまま知らないと答えた。
　元々自他への関心も興味も薄かった。
　名前など個体を識別する記号だと割り切り、自分の名前にすら愛着も何もなかった。

　それを知った親友は、遥を「はるか」と呼んだ。
　それが出来、それが許されるのは自分だけだと疑わない。
　彼だけの所有の証が遥には不愉快だった。
　興味も無い自分の名前に初めて起こった不愉快。

　その人物は「時任彼方」と言った。
　もう既にこの世にはいない、自殺した友人。
　大学時代から、名を馳せた天才と呼ばれる類のピアニストだった。

　「俺を見ろ遥。俺だけを見ろ。他には何も、誰もいらない。お前は俺の物だ」
　これだけ広がる濃霧の中、とても近いところから聞こえる声。
　──何度繰り返された事だろう。
　呪いのような言葉は、彼が生きていた時から何度となく繰り返された。
　今もこうして、繰り返さえる。何度も、何度も。

　彼方は一際、独占欲が強かった。
　ことある事に遥を束縛しようとした。
　どこにでもいそうな凡庸な秀才と、天才的なピアニストとして存在していた非凡な天才。
　並んで立てばどう見ても不釣合いな事は遥には分かっていたのに。
　その様な状況に辟易した。今にも、彼の傍から逃げ出したかった。
　……しかし、それは適わなかった。
　その頃には、遥は、彼が放つ嫌悪と同じかそれ以上の強烈な魅力に囚われていた。
　彼もまた彼方の魅力に惹かれ動けなくなっていたのだ。

　「お前の女だと聞いたから、手を出したのに、大したものではなかった」
　だから、何度聞いたか分からない自分の恋人の浮気相手が彼方である事実にも慣れてしまった。

　「俺を見ろ遥。俺だけを見ろ。『他には何も、誰もいらない』お前は俺の物だ」
　繰り返される言葉のニュアンス。
　その言葉には、どのような意味が隠されていたのだろう。

　「(お前は何故死んだ。俺の前から消えた)」
　心の声に、帰ってきた言葉は一つ。

　「許さない。絶対に。
　偽善者め」

　その言葉は遥に向けられた、親友の死に際の叫ばれた最後の一声だった。
　絶望と憎悪に鮮やかに彩られた、死に際の悲痛な絶叫。
　情景が脳裏に再現され眩暈を起こす。
　何が起こったのか、聞きたいのはこちらの方だ。

　「(お前ほどの天才が何故俺などに固執する？
　──俺が、お前を殺したとでもいうのか)」

　その縋るような心の叫びに沈黙するように、言葉は一切聞こえなくなった。
　「(……一番聞きたい事には答えてくれないんだな。
　狡い男だ)」

　諦めきれない──いや、声が聞こえない以上、この場はもう諦めるしかないのであろう。

　静かに、沈み込むように霧に呑まれる遥を見つめながら。
　足元にいた兎はにんじんを一口齧った。
　「……苦い。でも、やみつきになる味だね」
　少年の声でそう告げて、兎はもう一口にんじんを齧ってこくんと飲み込んだ。