オーデン・ソル・キャドーは落胆していた。
　横文字も併記されたメニューには、彼が期待していた『おでん』の文字が何処にもなかったのだ！
「なんとっ！　ここは日本で間違いありませんよね？」
　美しい景色にまず目を楽しませ、ここで頂く『おでん』は、さぞ素晴らしい味でありましょう、なんて思いを馳せていたのに。
　オーデンはこの世の終わりのような顔をして、額に手を当てた。
「なんという事でしょう……おでんは日本の国民食と聞きました。フランスのバーに入って、『テリーヌが無い』と宣告されるようなものです」
　その姿、まるで苦悩する彫刻のように。
「ああ、私の心がくたくたに伸び、張りを失っていくのが分かるでしょうか？　そう、まるで放置し過ぎたハンペンのように、です」
「お客様、本日は田楽でしたらご用意出来ますが、如何でしょうか？」
「……デンガク？」
　頃合を見計らって、ボーイがそっと掛けた声にオーデンは顔を上げる。
　メニューはイタリアン中心だが、幾らか和食系のものも扱っているようだ。
「庶民的な『おでん』は元々田楽からきているそうです。今日はおでんのルーツを辿ってみるのも、また良いのではないでしょうか？」
「ふむ……おでんのルーツですか」
　百聞は一見に如かず。
　オーデンは約20年物のボルドーと一緒に、田楽を頼んでみる事にした。



　この日は学会か何かが催されていたようで、ホテルにはおカタい雰囲気の者たちも出入りしていた。
　いかにも帰りに寄った風の、きちんとしたスーツに眼鏡を掛けた男性もそのひとり。
　軽くフロアを見渡したレンズ越しの切れ長の目が、僅かに見開かれる。
「……時任？」
　違うと分かっている筈なのに。
　その背を見た瞬間、斑鳩 遙の唇からはその名が零れていた。
　声に気付いて振り返ったのは、穏やかな面立ちの日向 透だった。
「どうかしましたか？」
　怪訝そうな視線の青年に、遙は緩く息を吐いて唇を動かした。
「……失礼、背格好と雰囲気が友人に似ていたもので」
「そうでしたか……俺は日向といいます。良かったらご一緒しませんか？」
　そう誘った透は、変わらず柔和な笑みを浮かべている。



　ところ変わって、再びカウンターでは。
（Woo……なんだいこの空気。俺が来ていい場所じゃないんじゃないかい？）
　洒落たモノクルをしきりに直しながら、十二月晦日 杏は女性陣の楽しげな会話を脇に神妙な顔をしていた。
　彼なりに身嗜みは整えてきたものの、なんだか自分だけ浮いているような気がしてならない。
（No！　折角来たんだし俺は今大人のstep上るよ！）
　杏、一念発起。
「俺の第一印象だけでオリジナルカクテルを作って貰えないかい？」
　緊張を解すようにフランクな会話を幾つか交わした後、そう注文した。
　カウンターの向こうを見ると、様々な材料からチョイスされた酒の瓶などが手際よく踊っている。
（カッコいいね）
　シェーカーを振るう姿に、純粋に思う。
（俺にもやらせて、とは言えない空気か……AKYも肩無しだね）
　杏はふぅと溜息をついた。
　ソーダをプラスして完成したのは、オレンジ色のグラデーションが鮮やかな、爽やかで軽いカクテルだった。
「ねえ、ここはどんな経緯でどういった人が多いんだい？」
「スタッフの事でよろしいでしょうか」
　カクテルを楽しみながらの杏の問いに、マスターは目を瞬かせる。
「経歴はもう、十人十色ですよ。バーテンダーに憧れて専門学校を出た者もおりますし、他の仕事を長年勤めてから、転職してきた者もおります」
　と、カウンターに立つ体格の良い中堅のバーテンダーに目を遣る。
「彼は以前は鳶職だったと聞いています」
「へえ……」
　目礼するバーテンダーを、杏はまじまじ眺めてしまった。
「バーテンさんも、結構色んなタイプがいるねぇいるねぇ♪　元ガテンさんもカッコいいけど、二人はどういうタイプが好き？」
「ふふ、バーテンさん結構いい身体してるんですねぇ。いい身体というと、そちらのお客さんも……」
「俺？」
　女性陣――宮八が話に乗って、万里から思わぬ矛先が返ってくる。
「スポーツか何かされてるんですか？」
「スノボとかボード系のスポーツがメインだよ。週末はスケボーしに色んなところへいくんだ。以前はアメリカに行ってた事もあるよ」
「へぇ～、それで……意外とこう、しっかりと」
「Oh、日本のコも結構フランクなんだなぁ」
　万里は何かナチュラルに杏の腕や腹筋を服の上からペタペタ触っている。
　二人とも譲り受けた宿泊券や福引で当てた金券が切欠で訪れた事や、学部は違うが木天蓼大学に通っていると分かり、俄然身近な感覚が近くなったが、あゆかは万里の様子にちょっと心配そうだ。
「まさちゃん、結構いいペースで飲んでたし……大丈夫かなぁ」
「え、酔ってる？　そんな事ありませんよ。ふふ、ふふふ」
　謎の笑いが零れる万里に、宮八もふふっと笑う。
「これくらいほろ酔いほろ酔い、楽しいお酒だもん、良いじゃない」
「う、うーん、そうかなぁ」
「ふふふ、あゆかさんはスラっとしてて、お人形さんみたいです……」
（酔うとスキンシップが多くなるのねぇ）
　今度は自分にくっつき始めた万里に、あゆかはほんのり苦笑いするのだった。

「おや、盛況のようだね」
　8席とも埋まってしまっているカウンター席、呟きに聞き覚えを感じて宮八は振り返った。
「あれ、運転手さん？」
「君は確か、煙草屋で……」
　声の主は彫り深く下がった目尻が印象的なタクシードライバー、円城 徹だった。
　しっかりした仕立てのシャツにコットンパンツ、ジャケットを身に着けた姿はノーネクタイで普段の運転手姿から見ると気軽な、それでいてしっとりとした大人のスタイルに見えた。
「ほー。ダンナ、タクシーの運転手なのか」
　託志も大柄ながら落ち着いた彼の雰囲気と、その仕事に興味を示す。
「普段は職業柄お客様をホテルへ送り迎えする側だけど、たまには泊まってみるのも良いかなと思って、時々ここに泊まる事にしているんだよ。さっきまでレストランで食事をして、少し休んでいたところだったんだ」
　お客様との会話のネタにもなるしね、と微笑む徹は、マスターとも何度も顔を合わせているせいか店での過ごし方も手馴れたものだ。
「始めはカウンターで……と思っていたんだけど、いっぱいなら夜景の綺麗な席をお願いして良いかな？」
「丁度良いお席がありますので、ご案内致します」
　テーブルの手配を頼む徹を見て、宮八も三人に尋ねる。
「折角だし、私たちも何処か席に移動する？」
「良ければご一緒に、どうかな？」
「夜景の綺麗な窓辺のテーブル……Wow、行ってみたいね！」
「お邪魔しちゃおっか」
　軽く振り返った徹の誘いに杏は声のトーンを上げ、あゆかも頷く。
「あ！　そちらの方も一緒に飲みませんか？」
「おっ？　俺たちもか？」
　ふわふわと笑みながら、万里は託志と梢太朗にも声を掛けた。
「その、端っこの方も」
「……え、私もですか？」
　入り口側の端の席でハイボールをちびちび楽しんでいた記士郎は、いきなりのご指名に目を丸くした。
　自分から誰かに声を掛ける勇気はないけれど、『ひとりでこういう時間を楽しむ仲間』というものがいる、そんな気がするだけでもほっと息つけるひと時だと思っていたのに。
「みんなで飲んだ方が、楽しいですよ～」
「それじゃあ……少しだけ」
　可愛らしい女性にニコニコされて、記士郎は頷いた。
　席を離れる際、ひとり静かに飲んでいた永姫の深い溜息が、託志の目に引っ掛かった。
「さっきから、大分強い酒ばっかり飲んでるみたいだけど……」
「お酒は強い方なの」
　声を掛けてきた彼を見上げ、永姫は軽く肩を竦めて見せる。
「それに、酔って眠ってしまえば、悪い夢は見ないで済むでしょう？」
　口許だけたわませて笑む彼女の顔を見詰めていると、徹が戻って来た。
「どうかしたのかい？　……ああ、そちらのお嬢さんもご一緒に？」
　温厚な笑みに、永姫はしばし逡巡した。