雨よ、どうか｜リアクション

雨よ、どうか

　ひび割れた鏡に己の姿を映してはならない。
　親しい者の姿を映すなどもってのほか。
　鏡はあちらの世界とこちらの世界をつなぐ窓、それが割れるということは、保たれていた世界と世界の均衡が崩れる兆し。

　かつて千年の永きにわたり、偉大な黒魔術師蛇姫と血で血を洗う争いを続けたとされる邪悪な召喚士・黒龍伯爵。彼は自らの武器である大鏡……召還の触媒扉を割られてしまったことで、魔の棲まう狭間に引きずり込まれ二度と現世へ戻ってくることはなかったという。だがきっと、今この瞬間でさえも、宿敵蛇姫をこちらへ道連れにしてやろうと機を伺っているに違いないのだ。

　……という自分設定を信じきっているはずの田宮順子が今、設定……もとい、禁忌も忘れて、その割れた手鏡の前で畏れと驚きに打ち震えていた。

「うそ……嘘よ！　まさか……」

＿＿封印が解けかかっているというの？

　少し、遡って。
　順子お気に入りの、邪気を跳ね返す守り鏡（デザイナーズフリマで￥1200円で売っていた）。初めて降り立ったこの島の”瘴気”は如何なる濃さだろうかと、それを左胸のポケットから取り出したのがまずかった。闇の気配に近く在ることは封印の箍を緩めることに他ならず、知らない土地ではそれを確かめるのが順子のたいせつな習慣のひとつ。だが、気付かなかった段差に足をとられ、鏡を持つ指先が一瞬、弛緩した。

「あっ……！」

　いばらの蔦モチーフで覆われた鏡は、意志を持ったようにどんどんと順子から離れ……アスファルトにぱたりと落ちる。拾わなくちゃ、そう自然と手を伸ばしたが、運命の序曲は残酷なイントロダクションを奏でてしまう。
　ところどころが砂にまみれた鏡のふちを恐る恐るつまめば、しゃり……と儚げな音がする。落下の衝撃で縦横に細かなヒビが入ってしまっていたのだ。無理に持ち上げれば割れて崩れてしまいそうなそれを拾い上げることも出来ず、禁忌の恐怖に直視することも出来……なかったはずなのだが。

「瞳が……」

　右の瞳に赤々と浮かび上がる魔法陣、それは血で満たされた聖杯のような禍々しさを放っている。目に飛び込んだ己の姿に、順子は愕然と膝をついた。
　落神という神は確かに存在する。だがそれは順子の知りうる因果律の外の神なのだ。まさかこのとき順子がもれいびとしてろっこんに目覚めようなどとは、どこの神でも思うまい。

　ぽつ、ぽつ、と。順子の絶望を悟ったかのように、雨の粒が落ちる。弱さを見せてはならない、封印を解かれれれば奴らを喜ばせるだけだから。そう信じ頑なに口を引き結ぶ順子の心を代弁しているかのようだった。

「雨よ、どうか封じ込めて……私の、闇を……！」

＿＿私は偉大なる黒魔術師蛇姫の血と魂を継承する器。だけど、この闇を制御する術はまだ知らない……！

「力と力は惹かれ合う……この島に居るの？　私を封印しうる力を持った者が……」

　居るという設定が増える……もとい、信じる日も来よう。何せ神ならちゃんとこの島にはいるのだから……。