マダム千代子と永遠のブルー｜リアクション

マダム千代子と永遠のブルー

●夢から醒めて

　一人バルコニーから夜空を眺めていた千代子は、微かに漂うメンソールの香りに気付き、庭を見下ろした。
「ジニーさん？」
「よお」
　シーサイド九龍をねぐらにする蜘蛛、ジニー・劉が軽く手を上げて。
「マダムに見せたいものがある、きっと気に入るはずだ」
　シニカルな笑みが薄い唇から消えないうちに、伸びた蜘蛛の糸が手すりを絡めて。
　千代子は誘われるまま、三下邸を後にした。

　葉を茂らせた桜並木の通路を進むと、闇の中、青褪めた貴婦人めいた顔で教会は訪問者を迎える。
「星ヶ丘教会ですわね」
　だが、勇んで扉を押した手は抵抗にあって、千代子は無念そうにジニーを見上げた。
「こっちだ」
　ジニーは気にした様子も無く、飄々と裏へ回る。
　そちらにも小さなドアがあった。施錠されていたが、ジニーは座り込むと細い針金を器用に操り、１分と待たぬうちに侵入者を拒む門番を沈黙させた。
「これでＯＫ。探検ごっこみてーで、スリリングだろ？」
　ジニーが千代子に手を差し伸べる。
　大人の女性は苦手だ。自分でも、この夫人に何故ここまでお節介を焼いているのか、理解しかねた。
　けれど……純真で世間知らずの彼女は、少し、ジニーの知っている誰かに似ていた。

　小さな島の、小さな教会。
　月は精緻なステンドグラスを透かして、極彩色に降り注ぐ。
「素晴らしいですわ……」
「綺麗だろ？　あんたに見せたくてさ」
　振り返った青年の、サイケデリックな柄シャツですら光の一部となって、千代子を感嘆させた。

　無邪気に喜ぶ千代子を、ジニーは祭壇の傍へと導く。
　手を組んで祈れば、千代子もそれに倣った。

　――神様なんて、信じちゃいねえ……

　ジニーはちらと、千代子の横顔を見た。
（ふかしじゃなく、本当に薫に似てんだな……だが）

　薄暗いままの会衆席に並んで腰掛け、ジニーは千代子に思い出話をねだった。
　千代子は語る。少女の落ちた帽子を何も言わずに河川に飛び込んで拾って戻ってきた、無口で無愛想な青年との出会いのエピソードを。彼との間に５人の男子が生まれ、それぞれに才能を花開かせ巣立って行った事を。
　唯一人、大人しくお母さんっこだった末子を除いては。

「マダム。あんたゴローの事、どう考えてる？」
　重い息を吐いて、ジニーは切り出した。
「薫をお袋と思い込んで、あんたの事、忘れちまったまんまで本当にいいのかよ！？」
「……でも、ゴローは病気で」
　千代子の主張を、ジニーは遮る。
「あんたの家族はズルくて身勝手だ、仕事が忙しいなんて口実。
　寄り付かねえのは、あんたの衰えてく姿を見たくねえから……要は自分可愛さだ」
　鋭いメスのように突きつけられた現実に、千代子は言葉を失う。
「友達が出来たから、寂しくねえなんて嘘だ。ダチはダチ、家族は家族。
　誰も誰かの代わりなんて出来ねえ、俺はそれをよく知っている。きっとそれが正しいって事も」

　旦那や子供を愛してたんだろ
　今だって愛してるんだろ
　ならやり直しはきく、絶対

「手術が終わったら、もう一度、家族と向き合ってくれ」
「ジニーさん……」

　千代子の瞳が、七色の光が、この青年に、もう一度真意を問う。

……信じちゃねえが　この島のへんてこな神様になら賭けてもいいかもな――

　だから、今だけはこう言わせてくれ。
　天を仰ぎ、静謐な空気で肺を満たすと、ジニーは想いを振り絞って囁く。

「手術は必ず成功するよ、母さん」

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