●３日目：数学その３


　ぽくぽくぽくぽく、うんだらみーたー、ちーん♪

　
（ふああぁぁ～……この木魚の音と単調なお経が……脳のどっかヘンなトコに作用して……）
　将来の夢は宇宙飛行士。だから理数系や英語は抜かりがない。前日はコンディションを優先してがっつり寝てきたという神薙 焔でさえも、欠伸で大きく開けた口元を手で押さえる。
（すごく……ン……眠い……）
　だめ、集中しないと、と思っていても、お坊さんの妙にいい声が焔の思考を阻害する。
（三角比が……思い出せない、こんな時は……7次までマクローリン展開して……近似すれば……教授の愛した方程式が……美しくて……）
　三角比――サインコサインタンジェント。角度Θがどうこうという高校一年生の勉強範囲だ。
　それが思い出せなくて、より高度な数式をテストの余白に夢うつつに書き連ねる焔。人は普段、脳の１０％ほどしか使用していないとも言われるが、残りの９０％のどこかが陽気とお経に刺激されて覚醒してしまったのだろうか？　ともかく、仏のように穏やかな薄目のまま、焔は無意識に高度で難解なナニカを書いている。

　一方、奈良橋 博美はこんな秘策に出ることにした。
　メントールが配合された、いわゆるクール系目薬。それを使うべきときだ。
　先生に向かって小さく手を挙げ許可を取る。
「目薬を差してもいいだろうか？」
　先生が許可してくれたので、博美は両目にちょんちょんと数滴ずつ目薬を落とした。その途端、清涼感のある刺激が、脳の奥までスカッと届くのを感じる。
（く～～～っ、効くぅ！）
　気分爽快！　リフレッシュすれば、割と得意な理数系。
（公式などの知識は必要だけれど、Ａ＝ＢならＣ＝Ｄと言った論理性を発揮すればなんとでもなるのが数学だ。論理だった道筋で冷静にひとつひとつ考えれば、そんなに恐れることはない）
　もちろん、自信のあるものを先に解くのが鉄則。自信のないものを先に解いて挫折するよりも、分かるものを確実に解くほうがいい、というのが博美の指針だった。きっと、食事も好きなものから先に食べるタイプなのではなかろうか。
　すでに、簡単に解ける問題は解答を記入済み。残ったのは応用的な文章題で、パッと見では解けなかったのだが、余った時間を費やして慎重に考えれば解けるはずだ。

　大天使 天吏は、無表情に窓の外を飛び回る小鳥を眺めていた。
　それは彼女のいつも通りで、陽気やお経のせいでぼんやりしていたわけではない。彼女はテスト中であっても、好きな鳥のことや、最近できた黒い羽根の友人――少なくとも天吏はそう思っている――のことなんかを、取りとめもなく考えていたのだ。
　そんな彼女だったが、成績はいわゆるトップクラスと言ってよかった。とくに理数系の内容は、天吏にとっては水が大地に沁み込むかのように自然と身体に入ってゆくものだった。
（数学。いつもの通り教科書と先生が授業中配ったテキストから予想されるであろう問題をただ解くだけ）
　残り２０分。すでに問題を解き終えて見直しに入っている者、ぜんぜん解き方が思いつかなくて焦りを感じている者、そんな中で天吏はここから猛烈に問題を解き始める。
（……今日はすこし眠いけれど、私の日常は変わらない）
　カリカリと解き進めれば、いつの間にか残り１０分になっている。
　ふと見ると、先ほどまで楽しげに飛び回っていた小鳥の姿が見えない。
（あと１問。早く終わらせて、鳥さんを探さなきゃ……）

　１年２組のみんなと勉強会をした白咲 琴音は、とっくに問題を解き終え瞑想中。
　陽気につつまれ静かに目を閉じていると、自分が生徒会長になっているビジョンが見えた気がした。
（……未来の生徒会長、ですか。ふふ、望むところです。そのためにもなるべくいい点を取っておきたいですね。折角みんなと勉強もしたんですし）
　残り時間がわずかであることを確認し、最終確認。ケアレスミスがあればと指差しながら確認してゆくが、ミスは一つも見つからなかった。一緒に勉強をした佳奈やみゆき、七星も今頃頑張っているだろうか。
（みなさん、いい点が取れるといいですね）

　鈴野兄妹の兄、鈴野 海斗も問題を解き終え、肩の力を抜く。
（ふーっ。とりあえず解答欄は全部埋めたっちゃ）
　次の瞬間、海斗は自然と妹の鈴野 加代を探していた。
　妹はすぐに見つかった。彼女も問題を解き終えて、兄のことを心配げに見守っていたからだ。
　視線が合って、海斗は笑顔で親指を立てる。
　海斗の笑顔をみた途端安心したのと、あの兄さんが、という想いがないまぜになって、加代はくすっと笑ってしまう。

　そのとき、寝ぼけまなこで口もとから涎を垂らしたまま、がばあっ、とののこが立ちあがった。
「ふ、ふわっ！　はいっ、わかりません！」
「こらぁ、野々ォ、誰もお前を当てとらん！　テスト中だぞ、よだれを拭け！」
　熊先生の怒鳴り声。ののこはきっと、授業中に指名された夢を見ていたのだ。寝ぼけていても迷いなく「わかりません」が出てくるあたり、普段が忍ばれる……。
　ののこは、何が起こったのか思い出せないといった顔で、きょろきょろと辺りを見回していた。
「……はっ！　あ、あれ？　あれれ？」

「ハッ！」
　この声で詠坂 紫蓮が目を覚ました。
（や、やばい……寝てた。じ、時間は！？）
　焦って時計を確認すると、残り１０分を切っている。
　紫蓮はどこまでやったっけ、とテスト用紙をひっくり返した。
　ああ、なんてことだ。問題は半分以上解いてあるけれど、難しい応用題がまだ残っている！
（うわ、これ１０分で解ける問題！？　……ああ、もう、とにかくできる所までやらないと！）

　そしてこちらでは普堂 しおりも。
（……っはあ！　カンペキに落ちてた……よだれよだれ）
　口もとを拭き、目を擦る。
（解答欄は一応埋まってる……字が汚くて自分でも読めないけど……）
　意識が飛び飛びになりながらも、なんとか手を動かし続けていたらしい。書いていないよりはマシだ。
（中間テストと補習のときに邪魔したお詫びに、小サンマ妖精が手伝ってくれたのかなー……）
　そんな訳はない。蛇ののたくったような古文書めいた文字はちゃんと自分の仕業である。
　ともあれ、しおりの気分はすっきりしていた。
　一眠りして徹夜の疲れが取れたのだ。
（ん、数学はともかく、音楽は頑張れそう）

◇

　難問だった文章題を無事解き終えた博美は、焔がなにやら必死で消しゴムをかけているのを見た。
（なんだろう？　残り何分もないのに、全部消すつもりかな？）

　そうではなかった。焔が消していたのは、夢うつつに余白に書いた高度かつ難解な数式や図たちの方だった。
（いつのまにかテスト問題がちゃんと解けていたのも驚きだけど、この無意識に書いた数式は我ながら何だったのかしら……何にも覚えてないんだけど……あ、もう終わっちゃう！　桐島先生のことだもの、余計なラクガキは消しておかないと減点になっちゃうかも）

　高度で美しい数式たちが、無残に消しゴムのカスに姿を変えてゆく。
　なお、焔が無意識に書いた数式の傍にはこう書かれていたという。

『寝子島眠り寝子問題の驚くべき証明を見つけたが、それを書くには余白が狭すぎる』


　――テスト終了の鐘がなった。
　焔は、それと同時に、数式だった消しゴムのカスをふうっと吹き飛ばした。

　……こうして、ろっこんとらっかみの秘密を解き明かす数学的大発見――だったかもしれない――ホムラーの最終定理は、人知れず消えたのだった……。