ライバル登場！｜リアクション

ライバル登場！

　晴れてはいるけど、薄曇り。
　空は高くない。どこまでも淡く、白いヴェールが空一面にかかっていて、太陽の位置さえ曖昧だ。
　吹き抜けてくる風には海の匂いがまじっている。潮の粒を舌先で感じるような、夏の気配をたっぷりと含んだ風。
　ブロック塀に映る光さえ湿り気を帯びて、淡くにじんでいた。
　世界そのものが、汗ばんでいるような午後だった。歩くだけで、うっすらと肌に汗がにじむ。
　綾辻綾花はゆっくりと歩いていた。
　淡い藤色のレース日傘をさし、左手には薄桃色のハンカチを握っている。ときおり額に当てて、にじんだ汗をそっと拭う。
　ここは、寝子島高校へとつづく懐かしい道。三年間通った、思い出の通学路だった。
　あの頃は、急ぎ足で通り過ぎていた。
　景色なんて、意識する余裕もなかった。
　なのに、たった三ヶ月離れただけで、あたりはこんなにも印象を変えていた。いや、変わったのは、自分の目のほうかもしれない。
　たとえば桜並木。制服の肩にひらひらと舞い落ちてきた花びらは、もう跡形もない。かわりに枝々は深く青く茂り、木漏れ日が舗道に揺れる。祝福のライスシャワーのように。
　通りの端、ひっそりとたたずむお地蔵様がある。よく見れば赤い頭巾が新しくなっていた。きゅっと結ばれたその布だけが、時の流れに取り残されたように鮮やかで、思わず足を止めた。お地蔵様の顔はもう、のっぺらぼうのように風雨に削られてしまっているけれど、手をかけてくれる誰かがいるのだ。気づかなかった。毎日、ここを通っていたのに。
　気配に気づいて目を向けると、電信柱の根元に猫がいた。灰色の毛並み。日陰のなかで身を小さく丸め、尻尾を前足に巻きつけてじっとしている。しばらく見ていると、猫は何度かまばたきをして、それからまた目を閉じた。
　とつぜん、どこかの家の奥から犬の鳴き声が響いた。甲高くて、少しだけ気の短そうな声。けれどすぐに止んで、かわりに蝉の気配が耳をなでていく。本格的な夏の合唱にはまだ早い。それでも、前ぶれのような声が林のほうから聞こえていた。
　視線を転じると、花壇の向こうに、水を撒くおばあさんの姿はなかった。水を吸ったばかりの地面、緑の匂い、湿り気のある空気。植え込みの隅には、名も知らぬ小さな花がひっそりと咲いていて、その足元にはビニール袋にまとめられた雑草の束が、くたびれたまま置かれていた。
　なんて、豊かな光景。
　それに、なんて、静かな時間。
　胸の奥で、ぽつりとつぶやいた。言葉にしなくても、こぼれてしまいそうなほどの想いだった。
　綾花は、傘の向こうに滲む光を受けながら、母校へと歩きつづける。
　……ただいま、って感じですね。
　午後の校舎はどこか埃っぽくて、けれど安心する匂いがするようだ。足音のぱたぱたという響き、生徒たちの笑い声。吹奏楽部の演奏がどこか遠くで鳴っている。トロンボーンが派手に音を外した。くすりと笑ってしまう。
　楽しい学校生活でしたね。
　胸がきゅっとなる。
　もう戻らない日々、とあらためて思った。

　寝子島高校は、卒業生の訪問にとても理解がある。
　「いつでもウェルカムですよ」と笑ってくれた校長の言葉を思い出す。今日はその言葉に甘えて、大学の講義が終わったあと、ふらりと立ち寄ったのだった。もちろん事前に教務へは連絡を入れておいたけれど、理由を訊かれることもなく、あっさり「どうぞ」と許可が出た。そんな気さくさも、寝子高らしさだった。
　元・寝子高生としての訪問。
　緊張しないと言えば嘘になる。とくに、制服ではない今の自分の姿を、どう見られるのかという戸惑いはあった。
　けれどいったん足を踏み入れてしまえば、部外者という思いはたちまち消えた。
　もう、目を閉じていてもたどり着けるほどに、あの頃の記憶が体に染みついているのだった。
　綾花はまっすぐに図書室を目指した。何百回と繰り返したように。