フェアリーランド・バレー開拓記｜リアクション

フェアリーランド・バレー開拓記

【月と星くず】

　葉月はふう、とひと息。今日はひと区画にトマトを植えることができました。明日はさらに区画を広げて、別の野菜も植えてみましょう。畑が彩り豊かになってゆくたび、きっと葉月の心も明るくまぶしく色づくでしょう。それが今から楽しみでなりません。
「こんな気持ち、想像もしていなかったわ」
　フランスでデザイナーとして花開き、まさしく咲き乱れる花園かそこに舞う極彩色の蝶のような、華々しい生活も悪くはなかったけれど。あまり感情を表さず、どちらかといえばマイペースが信条の葉月です。生き馬の目を抜くような芸術の世界で気を張って生きてゆくことに少々、疲れていたのかもしれません。
　きらめくビル街とネオンの下から抜け出して、風に吹かれながら自然を相手にすることが、こんなにも心地いいだなんて。
「今日はここまでね。さて……」
　もっともそれは、芸術や創作活動を捨てるという意味ではありません。葉月は根っからの表現者であり、絵画や彫刻、アクセサリーやアパレルデザインと、常に自らの手でなにかを生み出してきました。そうしなければ葉月の頭はきっと、芸術的試行で埋め尽くされてしまうでしょう。葉月にとって息をするように大切なこと……それはここ、フェアリーランドバレーでも変わることはありません。
「美しいビーチがあると、エミリーさんが言っていたわね」
　ふむ、と少し考えてから、葉月は急がず慌てず。ゆっくりと歩き始めます。農家の葉月はここまで、今日のこの後は、山すその浜辺へ出向いてみることにしました。
　その名も、星くずビーチ。なんとも素敵な響きではありませんか。
「……きれい」
　ちょうど日も暮れてくる頃合いです。まっさらな白砂にはちらり、ちらちら。きらり、きらきら。まさに星くずのような光が瞬いて、息をのむ美しさ。葉月は思わずしばし、虜のように見入ります。
　のんびり。ゆったり。人気のないビーチでなにもせずぼんやりと過ごし、思い立っては服を脱ぎ去り、海へと入って泳ぎました。浅瀬にも砂の星くずはきらめいて、たゆたう黒髪のつややかさも相まって、まるで夜の精霊が空を泳ぐかのよう。

　めいっぱい泳いですっきりとしたら、今度はおもむろにスケッチブックを取り出し、ペンを走らせます。創作意欲は心の動きとともに、唐突にやってくるもの。葉月はビーチを一心に、おだやかな心のおもむくままにスケッチブックへと落とし込みました。
「あら、お上手ね！」
　ふと頭の上からふってきた声に、振り向くとそこには、ぱかっと口を開けて笑う、カバさんがおりました。
「ねえ、その絵、うちで売ってみない！？」
「あなたは、たしか……雑貨屋の」
「そう、マチコよ。あなた、絵が上手いのね！　芸術家なら、作品を展示するギャラリーが必要じゃない？　あるいは有望な人材を見抜くパトロンもね！　よかったら今度、うちの店に寄ってちょうだい。損はさせないから！」
　ゼッタイ来てね！　と言って、マチコさんはさくさくと砂を踏みしめ行ってしまいました。
　葉月が服を脱いだままだったことに気づいたのは、彼女が去ったあとでした。