潮騒に呼ばれて｜リアクション

潮騒に呼ばれて

　目まぐるしい新学期の洗礼を乗り越え、ホッとひと息がつけそうな４月下旬。
　快晴とまではいかないけれど、春の海を満喫するのに十分な天気は、佐藤英二の頬を綻ばせた。
　しっかり抱えた、スクールバッグより細長い鞄には、先日ホームセンターで購入したばかりの釣り道具が一式入っている。もちろん、海でも川でも使える初心者用の汎用的なセットで、腕前に自信があるわけではない。けれど、傍らでは野々ののこがバケツを手に、くるくると回っているから、せめて楽しい時間を過ごせればいいなと思うわけで。
「野々さんは、生き物観察と釣り、どっちに興味がある？」
「食べられるほう！」
　その言葉に同意するように、ののこの腹の虫が鳴った。
　たまたま朝食を食べ損ねたのか、それとも……と、進路の決まっていない彼女の生活状況を心配しつつ、英二はコンビニ袋を揺らす。
「あはは……釣れるかわからないから、野々さんの分のお弁当も買ってきてるよ。多めに」
「本当!?　じゃあ、釣れたらお弁当が豪華になっちゃうんだね！」
　何がいいかなと次々に魚の名前を歌うののこは、マグロにカツオと無理難題から、鰺に鰯と狙えそうな物まで挙げていく。
　だからつい英二もその気になって、今の時期に浅瀬で釣れる魚を調べながら、２人で海岸沿いを目指した。

　そうしてやってきたのは、寝子ヶ浜海浜公園近くにある防波堤。
　テトラポットにぶつかり砕ける波しぶきに、その合間をくぐり抜ける子供たち。ののこのテンションを上げる要素はいくらだってあるはずなのに、彼女はぐっと押し黙り恨めしそうに見つめている。
「野々さん？」
「あんなに騒ぐとさぁ……お魚、逃げちゃうよね？」
　確かに、釣りで大騒ぎするというのは聞いたことが無い。釣りに限定しなくたって、生き物を捕まえようというのに警戒されるような物音を立てるのは、あまり得策ではないだろう。
「そうだね。でも、釣りをしている人が少ない場所なら、騒いでもいいんじゃないかな？」
　道中調べて、岩場でも食べられる生き物がたくさん生息していることがわかった。寝子島の海に本当にいるかどうかは、探してみないとわからないけど、ののこが何かを捕まえ食べてみたいというなら、日がな釣り竿の前でボーッとするより成果はあげられるかもしれない。
　ちらりと防波堤を見て、ちらりと岩場を見て。ひとしきり頭を抱えて悩むと、ののこはぴしっと英二の鞄を指さした。
「せっかく持ってきたんだから、釣りにしよう！　岩場で遊ぶのは、これさえあればいつでも出来るし」
　バケツを抱え笑うののこは、少し変わっただろうか。
　高校時代は興味を示したことは全部やりたいとか、我慢の効かないところには困らされることも多かったのに……今では考え、選択し、進もうとしているようにも見える。
（野々さんが暮らした、寝子島での３年間は……きっと、無駄なんかじゃない）
　どんな生い立ちか知っているからこそ、仕方ないと感じていた部分もあったけれど。今はちゃんと『ひと』として歩もうとしていることが伝わって、英二は少し嬉しくなった。
　同じ時間を歩める――それが、どれだけ幸せなことか、彼女は知っているだろうか。
「あはは、そうだよね。いつでも……うん、楽しみにしていていいかな？」
　無意識に出た言葉だろうし、もちろん特別な意味なんて期待していない。でも、彼女が「にししっ」と笑う顔は、本当に楽しそうだから。叶うなら、次も１番近くで見ていたいと思ってしまう。
「もちろんだよ！　英二くんが居なきゃ、始まらないじゃん」
「えっ」
　しっかりと腕を握って、早く行こうと急かすののこは、チューリップみたいにぱっと明るく笑うだけ。
　それくらい特別な友達と思ってくれているのか、はたまた釣り道具を持っているからなのか、一緒に居たい異性なのか、それとも――ただの、ご近所さんなのか。
（ああ、もう……）
　聞き返す勇気も無い自分が情けないような、今は彼女が喜んでくれたことに満足しておきたいような。
　意識し始めた恋心は、陽気のせいにしてごまかせないほど、英二の頬を赤らめる。まだ釣りも始めていないのに、こんなに振り回されていていいのだろうか。
「ねぇ、野々さん。僕、必ず釣り上げるね」
「お!?　そうこなくっちゃ！」
　きっと彼女は、魚のことだと思っている。……でも今は、それでいい。
　英二は照れくさそうな顔をしながらも、どこか満足そうに「楽しみにしててね」と笑った。

　今はただ、静かに釣り糸を垂らす時間。
　目の前で泳ぐ大物は、気まぐれに餌へと興味を向けるだけの持久戦。
　それでも、いつかは――この手に、君を。

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