過ぎ去りし想い｜リアクション

過ぎ去りし想い

　……絶対変だ。
　桜井ラッセルは足を止めた。
　平日の午前中、駅舎の向こうに広がる空は薄い雲がゆるく広がり、光をやわらげている。通勤や通学のピークは過ぎた時間帯で、駅周辺にはちらほらと人の姿が見えるだけだ。駅前のロータリーには客待ちのタクシーが数台停まっている。バス停のベンチで老人が新聞を広げ、遠くでカラスが低く鳴いた。
　なんてことのない、静かな日常の光景――のはずなのに。
　ラッセルの背筋に、妙なざわつきが走る。

「待って」
　晴月はラッセルの手を取りぐいと引くと、背伸びして両腕をのばした。左右の手でラッセルの頬をつつみこむ。
「はづ……」
「黙って」
　目を閉じると晴月は、ラッセルに長い口づけを与えた。

　十分ほど前のやりとりを回想する。
　違和感があった。
　なんか変だった。あのときの晴月。
　そりゃあロマンティックなのもいいし好きだけどさ、そういうのじゃなくて。ただならぬ覚悟を感じたような。
　寝子島から神魂が消えて『ろっこん』も消えた。そのせいで俺は飛べなくなって、晴月は不調、って――。
　単なる不調なのか！？　
　すでにラッセルは方向転換し、来た道を早足で戻りつつあった。体は斜め前にかたむいている。
　大学はサボってもいい。オリエンテーション？　それより大事なことがある。「後悔しない人生にする」んだろ！　俺！
　いま引き返さなきゃ、マジ後悔しそうだ！
　もはやラッセルは駆けだしていた。全力で。
　晴月……晴月……！
　ラッセルの脳裏に、かつて見た夢の断片が稲妻のようにひらめいたのだ。
　こん畜生、いまごろになって思い出すかよ！
　晴月が、いなくなっちまう夢だった。
　――さようなら、ラッセル。
　と告げて晴月が俺のもとを去る。もうこの世界では生きられなくなったとか言って。
　ただの風に還るんだって、寂しそうに。
　あの夢見て、俺、泣いちまったんだ。頬を伝う涙の感触で目を覚ました。
　予知夢とかねーよな。正夢だとか全然笑えねーぞ。　
　ラッセルは速度を上げた。大きく腕を振り猛然と走った。アパートの階段を一息で駆けのぼりドアに手をかけた。
　開かない！？
　施錠されている。慌て鍵を取り出してドアを開け放った。
「晴月っ！」
　返事はない。玄関を見て、晴月の靴が消えていることを知った。
　どっか出かけたとか？　買い物？
　だが、とラッセルの中の冷静な部分が告げていた。
　駅やら店やらまでは一本道だ。だとしたら引き返す途中で、自分は晴月と出会ったはずだと。
「――！」
　大きく開け放たれた窓、その向こうはベランダだ。カーテンがはためいている。
　ベランダから紐のようなものが垂れ下がっているのが見えた。片方の端が、手すりにしっかり縛りつけてある。靴を吹き飛ばすように脱いで部屋に上がって、ラッセルはロープが垂れ下がっているのを目にした。
　ここに引っ越してくるとき使った丈夫な縄だ。何本もゆわえて長くしたものが延びていた……地面まで。
「晴月……晴月っ！」
　身を乗り出してラッセルは大声をあげた。
　返事はない。
　少なくともひとつ、確実に言えることがある。
　晴月はもう飛べないということだ。
　飛ばないのではない。
　飛べないのだ。
　このときようやくラッセルは、食卓に置かれた書き置きに気がついたのである。
　震える手で持ち上げる。

『ラッセル、これをラッセルが読むころには、わたしはもういません。』

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