【あしたも】

「本当に、本当に申し訳ありませんでした……！」
「いや、大丈夫。もういいよ、誰にでもミスはあるさ。次から気をつけてくれればね。そんなに縮こまらなくても大丈夫、森篠さん、もうじゅうぶん反省してるじゃない。ねっ」
　と寝子島信用金庫のボスは軽くおっしゃってくださいますけれど、森篠 琳子の責任感の強さときたら、そう簡単に自分を許してはくれません。些細な失敗だとみなは言ってくれるけれど、きっと防ぎ得たミス。常に注意深く仕事にのぞんでいたなら、起こらなかったはず。あそこで気づいていたなら。あの場面でああしていたら。後悔の念は尽きず、いっそう重みを増してゆくばかり。
　適度なところで気持ちを切りかえ目の前の業務へ真摯に応じ、また明日もそれ以降も続く仕事の日々に備え、自己管理に心を配るのもプロのやり方というものではありましょう。けれど琳子は彼女の上司や世の多くの先達たちのように割り切って考えられるほど、熟達してはいません。若くして優秀ながらその一方、若いなりに未熟なところも多々ありました。もちろんそれが、ごくごく普通のことです。
　挽回しなきゃ。取り戻さなきゃと焦り、沈鬱な気持ちをかかえるままにその日の仕事をどうにかこなし、就業時間を迎える頃には琳子の心はすっかり、こそげるように疲弊しておりました。



　ふらりふらりと帰路を歩むと、なんだか自分が底なし沼へ沈んでいくような感覚におそわれます。
「……つかれた」
　仕事の量も密度もいつもどおり。どうにか持ち直して、その後は再度のミスもなく粛々と、きっちり正確にこなすことができました。はた目にはすっかりと立ち直り、普段の琳子と変わりなく見えたかもしれません。
　けれどそれは外から眺めた琳子のこと。内側にはいまだ重たく黒い後悔が渦を巻いておりますし、歩を進めるたびずぶずぶと、どこまでも沈み込んでしまいそう。ずるりずるりと足を引きずり、まるでこの世の終わりみたいな気分です。
　だから……ふと空を見上げた時、頭上に広がるとっぴな光景を、琳子は夢かまぼろしと思いました。
「？　？？　なに、これ？」
　見たままを表現するなら、そう。寝子島の街並みが、めくれていきます。地面が薄皮めいてぺりぺりとはがれて、空にむかってくるくるくると巻き上げられていくのです。家もお店もビルたちも、そこに暮らす人々までもつるりと巻き込みながら、それでいて彼らが慌てふためくようなそぶりはありません。つまり、この奇妙キテレツが見えているのはどうやら、琳子だけであるようです。
　くるくるくるり。ロールケーキのように巻かれてゆく寝子島。その、いわば生地の裏っかわに、
「あれは……街？　シーサイドタウンでも旧市街でも、星ヶ丘地区でもない……」
　不思議な街が隠れていたことを、琳子はこの日初めて知りました。
「行ってみるかい？」
「えっ」
　ロールケーキ寝子島のいきおいもさながらに、くるりと振り向きますと。目の前に……あれっ、誰もいない？
「下だ、した」
「え、あ」
　琳子の足もとに、ちょこん。ぽてん。でっぷりとした茶色いカタマリは、よくよく見つめてみれば、
「……たぬき？」
「まーったく、人間っつーのはよう。なにかっつーと仕事シゴト、ヤクワリだのセキニンだの、めんどくせえったらねえ。よくやるよ。あんたもそうなんだろ？　そんな顔してたぜ」
　そう、たぬきさん！　なにやらしゃべっておられますけれど、とにかくたぬきさんでありました。
　たぬきは人間みたいに眉をひん曲げて、つまらなさそうに言いました。
「そんなもんが無きゃあ回らないのは、社会のヒズミってやつじゃあねえのかね。誰もかれもが無理して、休まず働いて、時にはダメんなっちまうヤツもいる。それ、あそこのでけえビルの屋上から……そんな連中を、俺あ山ほど見てきたからよう。ちっ、なんだな。世話焼きたくなっちまうんだよな」
「はあ……」
「そんで、どーする？　行ってみっか？」
　短い前足で、たぬきはぴ、と頭上を差します。あのめくれた寝子島の裏っかわを。
「どーする、って言われても……」
　見つめるたぬきのつぶらな瞳に、琳子は惑いました。



　『裏っかわ町』と、たぬきは彼の住まう場所をそう呼びました。器用にたぬきそばをすすりながら。
「たぬきにきつね。霊界からきたあやかしに、人間も少しゃあいるかな。最近は、ほしびと？　って言ったかね、新しい顔も見かけるようになったよ。賑やかなこった」
「へえ……」
　琳子もオゴリのたこやきをぱくりといただきつつ、あたりを興味津々で眺めます。
　多いのはやはり、たぬきやきつねたち。和の装いをしたあやかしたちもよく目につきました。それに狼男や吸血鬼っぽい西洋妖怪風なあやかしや、なるほど、ほしびとの姿もちらほらと。
　そんな住人たちが、ぴーひゃらどんどん。終わらないお祭りに興じるのがここ、裏っかわ町という場所なのだそうです。古き良き田舎町のお祭りといった風情で、提灯を下げた屋台がずらずらりと並び、お囃子や太鼓の音がどこからともなく聞こえてきます。ゆきかう住人たちも楽しそう。きつねもたぬきもにこにこ、仲よし。翼を持つほしびととネコマタが杯をくみかわし、あちらで綺麗なお姉さんに変化したきつねたちにもてなされているのはどうやら、琳子と同じく迷い込んだ人間でしょうか。
「たしかに、楽しいわ」
　ぽやんとして、琳子はつぶやきました。先ほどまでのウツウツとした気分がウソのよう。だってココの住人たちときたらなんだかもう底抜けに明るくて、ぴーひゃらぴーひゃらとお祭りを楽しむばかりで。すっかり毒気を抜かれてしまいました。
「だろ？　バカみてえに騒いでりゃ、その間に面倒くせえもんはどれもこれもみーんな通りすぎて、なくなっちまうよ。世の中そういうもんだ」
　そうではないことも、ままありますけれど。逃げてばかりじゃどうにもならないことだって、たくさんありますけれど。けれど、けれど。
　琳子は野暮を口にすることなく、代わりに礼を述べました。
「ありがとう、たぬきさん。少し気が晴れたわ。また明日から頑張れそう」
「やれやれ、そんでまたつまらねえ仕事とやらに戻るのか。救えねえなあ、人間ってやつはよう」
「あら、つまらなくなんてないわよ？　やりがいがあって、気にいってるわ。ただ時どき、ちょっと疲れちゃうだけ」
「へえへ。ま、たまにゃあ息抜きでもして、せいぜい長生きしろよな。案外短けえもんだからよ、人生なんてのはよ」
　ぶっきらぼうに聞こえて、たぬきさんの言葉にはなんだか、やさしい響きがにじんでいて。琳子は思わず、くすくすり。



　おみやげとして持たされた綿あめを手に、琳子は寝子島へと戻りました。
　ずごごごごごご……めくれたシーサイドタウンが音を立て、ロールケーキをほどいて平らにするみたいにぱらり、ぺたんと元の姿へ戻っていきます。ほどなく、なんの変哲もない寝子島となった眼前の風景に安堵し、少しばかりのさみしさと、先ほどまでは自分の内にチリほども感じられなかった、湧き出すような活力を覚えて、笑顔とともにつぶやきました。

「あしたも頑張ろう」