今はまだ。それでも今は。｜リアクション

今はまだ。それでも今は。

　陽春の温かな気配が寝子島を包み、誰もが浮き足だってしまう４月。
　そんな季節でも、早川珪は心地良い空気に惑わされることなく、朝から自室を軽く整えていた。
　今日は、綾辻綾花とのデート。エノコロ岬を満喫した後は、この部屋で一緒に夕食をとのことだったから、彼女を迎える準備はもうこのタイミングでしかできない。
（何を作ってくれるんだろうな）
　今までも何度か口にしたことはあるけれど、彼女の手料理は優しい味がする。それを食べることで彼女に近づければ、もっと好みを知れればと思うのに、綾花はいつだって「珪さんの好きなものを」と口にするのだ。
　その一生懸命さが可愛くて、互いに求め合うすれ違いがおかしくって。珪は小さく笑みをこぼしながら、身支度も調えた。
（……ついこの間までは、不用意に家へ上げることを躊躇っていたのに）
　それは、彼女が生徒で自分が教師であったから。
　大人としての立ち居振る舞いが強く求められる職である以上、己を律して接しなければならなかった。

　でも――１番の理由は、珪が恋愛に臆病であったこと。

　今では過去も乗り越えたし、綾花が寝子島高等学校を卒業したことも合わさって、彼女への想いを認め恋人という肩書きを新たに手に入れたのだ。……けれど。
　家の鍵を持ったあたりで、ふと机に出しておいた１枚の用紙を見る。

　――忘れずに、持ってきてくださいね！

　今日のデートでエノコロ岬に行くと決まったとき、綾花は嬉しそうにそうお願いしてきた。
　以前は『まだ』恋人ではないからと、綾花１人が書いた、恋人宣誓書。彼女の気持ちを預かるという意味で持ち帰った、エノコロ岬のお土産だ。
（もう逃げないって、決めたんだけどな……）
　なのに、咄嗟に出た言葉は「探しておくね」だった。
　４月の今、彼女はもう教え子じゃない。１人の成人女性として見てあげられる。でも――世間では、まだ高校を卒業したばかりの女の子だ。
（諸手を挙げて喜べるか、といえば）
　長く気持ちを温めて、待っていてくれたのはわかっている。応えたいと思っている。だけど。
　どうにも絶妙な時期に煮え切らず、珪はひと呼吸分考えるようにゆっくりと息を吸った。

　本当に、ここで浮かれていいのか。
　彼女を、守れるのか。

　ふぅっと息を吐き出すと同時に、迷いなく瞳は開かれた。
　手の中にある鍵をぎゅっと握りしめ、机に置かれた恋人宣誓書へと手を伸ばす。クラッチバッグへ丁寧に入れようとしたとき、珪の右薬指がきらめいた。……綾花との、ペアリングだ。
（こんな待たせてばかりでの僕でも、綾花さんは選んでくれた）
　だから珪は、覚悟を携える。約束の場所で、彼女の笑顔と向き合うために。

　先に待ち合わせ場所に来ていた綾花は、夢見心地に何度もペアリングを確認する。
　告白をした。
　嬉しい返事をくれた。
　そのどれもが現実だと教えてくれる、珪とのペアリング。そっと撫で、時に陽光にきらめかせて存在を確認すると、まだデートも始まっていないのに幸せだ。
　彼と出会って、恋と愛の違いに悩んで。珪の弱さも知ったし、これからも支え慈しみたいと思った人。
　そんな人と、恋人になれた。珪も同じ気持ちだから、恋人にしてくれたんだと信じている。でも――。
（探しておくね、なんて）
　あのときは出せなかった恋人宣誓書も、本当になった今なら出せない理由はなくて、楽しみにしていた。
　なのに彼の返事ときたら予想外のもので、綾花はふむりと考える。

　もしかして、机の奥にでも引っかかって取り出せないのだろうか。
　それとも、冬服と一緒にしまい込んでたりするのだろうか。

　色々と可能性を考えて、綾花はクスクスと笑う。
（もしそうなら、今度は一緒にお掃除をしなきゃ！）
　持ってこなかったら小言のひとつも言いそうだけど……彼が嫌だと言わなかったのは、きっと照れ隠し。
　そう思うと、とたんに珪がかわいく思えた。
（幸せ、です）
　しみじみと、思う。でも、しっかりと感じる。

　海風が心地いい。
　きっと、今日も特別な１日になりそうだ。

このページにイラストを設定する